山下神父様と行く「聖地巡礼」第6日
最初の訪問はベタニアのラザロのお墓です。狭い岩の間を下って行きました。
「ベタニア」の教会で御ミサです。
「今日は、復活節第二主日、いつくしみの主日です。神のいつくしみは偉大なものです。ヘブライ語では、いつくしみのことをラハミムと言い、これは母の胎を意味する言葉に由来します。数年前、教皇フランシスコは、家庭についての講話をなさっていましたが、ある時、一人の妊婦が教皇様の前で、子を宿している自分の胎を指して祝福を願いました。教皇はこのことについてこう言いました。母は生まれる前から、この子供の全てを受け入れ、愛し、祝福を願います。生まれてくる子供が完全であるからではありません。生まれてきた後にはいろいろあります。言うことを聞かなかったり間違いをしてしまったり…人間の不完全さは、私たち皆の現実です。それにもかかわらず、母親はその子の全てを愛していて、その愛は永遠に変わることがありません。それが、神のいつくしみです。人間の間違い、失敗、罪、闇、ありとあらゆる悪があってもご自分の愛といつくしみを変えることはありません。それが神の、罪と闇に打ち勝つ方法なのです。
その神のいつくしみはイエスの復活によってさらに強く示されました。ヨハネ福音書では、お墓に行ったマグダラのマリアは、最初園丁だと思っていたのに、「マリア」と呼ばれて復活なさったイエスと気づきます。私たちも名前を呼ばれています。復活の恵みに気づけますように。そして、その後、マリアは弟子たちに復活なさったイエスのことを告げに行きますが、使徒たちは信じることができません。そして、恐れて家の戸に鍵をかけていたとあります。それは恐れによって固まってしまった、開かれていない心を表します。心が閉ざされた時、通気性の悪い場所になります。そこには怒り、妬み、憎しみ、冷淡さなど、愛といつくしみとは相容れないもので埋まってしまいます。そこで、イエス様がいきなり(一方的に)来てくださって「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったのです。ですからこの言葉には大変深い意味があるのです。イエスが復活したことの意味とは、神にしか与えることのできない、平和、平安が、復活を信じる者に与えられるということです。今日の福音では、イエスの復活と平和、平安、それから、喜び(弟子たちは主を見て喜んだ)、派遣(「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」)そして聖霊を受けることとゆるし合うこと(「聖霊を受けなさい。あなたがたが赦せば赦される」)と密接に関係つけられて語られています。最後の、聖霊を受けることと赦し合うことについてお話しします。イエス様の復活によって、聖霊が与えられますが、聖霊が与えられなければ、私たちは人をゆるすことはできないのです。実際人を赦すのは難しことです。不可能に思えることもあります。復活によって与えられる聖霊がなければ赦すことはできないのでしょう。最後にトマスの信仰告白について考えましょう。最初にイエス様が現れた時いなかったトマスは「自分で見て手で触ってみなければ信じない」と言います。人間の経験主義、合理主義の極みのようなです。だからこそ現代人、私たちには深い意味があります。「私を見たから信じたのか、見ないで信じる者は幸いである。」ヨハネ福音書はその最初から、見ること、聞くことを大事にして、そして信じるようになりなさい、と絶えず招いて来ました。しかし復活後、この福音書のクライマックスでは、見ること(聞くこと)がなくても、信じなさい、そちらの方が幸いなのだ、と説きます。私たちも同じです。人間イエス様は肉眼では見えないんですが、全ての出来事、特に痛み、苦しみという十字架の体験の中に、神の現存とその業を見出せる信仰を持つことができますように、そしてその信仰によって幸せになることができますように。マリア様のお取り次ぎを祈りましょう。」
エルザレムからエリコへの途中、海抜ゼロ地点です。
エリコのザアカイの木の前で。「木から降りて来なさい。今日あなたの家に救いが訪れた。」イエス様から、このように声をかけられること、これ以上の幸せはないのでは。
死海での浮遊体験です。皆さま、子供に帰りました。
今日のごミサは、これからの宿泊施設・黙想の家、「山上の説教」のお庭での野外ミサです。
神のお告げの祭日。
対岸はヨルダンというこの地で、イエス様は洗者聖ヨハネから洗礼を受けられました。
死海文書発見の洞窟の前で、ガイドの説明を聞きます。
新しい日の最初の訪問は、ロトの塩柱です。後ろを振り返ったために塩の柱になってしまったロト。私たちに強いメッセージを送ってくれます。
今日お誕生日のYさん。おめでとうございます。巡礼家族でお祝いです。