「ダ・ヴィンチ コード」その2

スタッフによる雑感第二弾です。
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ダ・ヴィンチ・コード』論争雑感

駅を歩いていると、キオスクで売られているスポーツ新聞の見出しにドッキリさせられることがある。「なんと犯人はあの○×△!」と見出しが大きく踊り、意外な事実に思わず新聞を買い求め、内容に目を走らせると、単なるゴシップと推測の羅列ばかり。読む価値もなかったのである。不快な思いであらためて見出しを見ると、「なんと犯人はあの○×△!」という文字の後に、小さな文字が加えられていることに気づく:「か?」。騙された自分に思わず腹を立ててしまう。


ダ・ヴィンチ・コード』は私にとってスポーツ新聞の見出しに相当するものだったが、問題意識の高い広報担当者に触発されて、5月20日の映画公開に合わせてフジテレビ局で放映された番組を見た。小説を読んでいないので、内容について言及することは出来ないが、放映したメディアがキリスト教に対する無知をさらけ出しつつ、あたかも事実であるかのように放映した軽薄さと、メディアとしての無責任さには絶句せずにはいられなかった。


ベストセラーとなった問題の小説の「見出し」はどうやら「神の子イエス・キリストに子孫がいた!」ということらしい。教会が神格化しているイエス・キリストは、実はマグダラのマリアと結婚し、マリアは娘を出産していた。そのためマリアの追放を図ろうとする男性優位の初代教会から、マリアは娼婦の汚名を着せられ、フランスに逃亡してそこで生き延びた、ということらしい。このような摩訶不思議な「見出し」がどのように立証されているのか、テレビがダン・ブラウンの小説を忠実に紹介しているという前提に立って、ダン・ブラウンが引用している種々の資料について検証したい。

テレビで再現された福音書の二箇所に関する間違いの指摘から始めよう。


まずイエスと「マリア」との感動的な出会いについてである。テレビの再現シーンでは、石打ち刑にあっている「マリア」にイエスが近づき、出血している顔に手をさしのばし、たちまち傷が癒される場面が描写されていた。イエスと「マリア」はお互いにいつまでも見つめ合っていた。


この場面の引用箇所はヨハネである(8章1節〜11節)。しかし一読すれば、姦通の罪によって捕まえられたこの女性には名前はなく、結局、イエスの一言により女性はかろうじて石打ちの刑から免れたことに気づく。


次にイエスが弟子達と食事している場に「マリア」が入っていき、イエスの足に香油を塗り、髪の毛で拭くシーンを描きながら、これは求婚をさす行為である、という解説が添えられている場面が描写されていた。


この場面の引用箇所は二箇所挙げられる(ルカ7章36〜50節、ヨハネ12章1〜8節)。ルカでは香油を塗る女性は罪深い女であり、名前はない。ヨハネでは「マリア」という記載されているが、これはマグダラの「マリア」ではなく、ラザロの姉妹、ベタニアの「マリア」である。葬られる者に香油を塗る慣習にのっとり、近々十字架に処せられるイエスに香油を塗っているのであり、香油を塗る行為に求婚の意味はどこにもない。そしていずれも弟子達との食事の場面ではない。


テレビとダン・ブラウン福音書、つまり新約聖書の権威を借りながら、実はどこにも記載されていない虚偽の場面の再現と解説をやってのけたのである。キリスト教に馴染みのない人はこの段階で聖書の名のもとに愚弄され始めていくのである。

マグダラのマリア」とは何者であろうか?イエスに仕える弟子達の他にイエスに仕える女性達が存在していた。マグダラの「マリア」はその一人であり、かつてイエスから悪霊を追い出してもらった経緯を持っている(ルカ8章2節)。娼婦であるという言及はどこにもない。


ダン・ブラウンが主張している教会陰謀説、すなわちマリアに娼婦の汚名を着せて追放を図った、ということが正しいとすれば、なぜ初代教会はマグダラのマリアの名を福音書から完全に削除をしなかったミスを犯したのだろうか、という疑問が生じる。


マグダラのマリアは実に六箇所の場面にわたり言及されている(マルコ16章1〜11、マタイ27章56節、61節、28章1〜10節、ルカ23章55〜24章11節、ヨハネ20章11〜18節)。注目したいのは、いずれもイエスの死か復活の時に立ち会っており、重要な証人として位置付けられていることである。そればかりでなく、復活イエスの証人として弟子たちに知らせる重要な役割をイエスから託されていることが明記されている(マルコ16章7節、マタイ28章10節、ヨハネ17章18節、)。初代教会がマグダラのマリアの隠匿と追放を図った、という陰謀説がどうして裏付けられるのか理解に苦しむばかりである。


福音書が書かれ成立する時期は、早いものはマルコ福音書で、紀元後70年代の頃であり、これはイエスの死から約40年近い後のことである。次いで、マタイとルカは80年代、ヨハネは90年代、すなわちイエスの死から60年近い後のことである。マグダラのマリアを追放した初代教会が約40〜60年近く経過した後もなお、重要な証人として彼女の名を記録にとどめておくのだろうか。この記録の事実はむしろイエス復活直後から、復活したイエスの証人としてマグダラのマリアは初代教会のはじめから常に大切にされていたことを如実に語っていないだろうか。

  • ニケア公会議(325年)

次に政治的意図によりイエスを神の子として制定し、新約聖書が正典として成立に至るまでの歴史的過程について取り上げたい。


ダン・ブラウンコンスタンティヌス皇帝という歴史的人物を登場させ、現在の新約聖書の形となった正典を成立させ、キリスト教徒同士の分裂に終止符を打つために二ケア公会議(325年)にてイエスの地位を押し上げて、神の子として票決により制定させた立役者、と展開したくだりには、テレビを見ながら椅子から落ちそうになった。


ニケア公会議の発端となったのは、イエス・キリストが神の子であるのか否なのか、という論争ではなく、イエス・キリストは、神に従属し、本質的神性を持たない、とするアリウス派と、イエス・キリストは神と同じく神性を持つとするアタナシウス派との間の教義論争であった。公会議において決定の際に採択されたのは、父なる神と子キリストが「同質」と規定されたことなのである。


コンスタンティヌス皇帝は正典の成立には何の関係もない。170年頃、「ムラトリ正典目録」によって正典が既に実質上確立されていることが確認されている。テレビで人間的なイエスの部分を削除すべく、ページをひっちゃぶりまくっていた、という場面に思わず失笑した。福音書が一貫性をもって綿密に編集されている事実に対する無知もさらけ出していたからである。

またダン・ブラウンは「フィリポの福音書」について言及している。アラム語で書かれ、正典からはずされているのは、まさしくイエスとマグダラのマリアが接吻し、結婚していたことを証明する場面が記載されているからである、と主張するが、実際には「フィリポの福音書」はコプト語で書かれており、肝心の内容にいたっては、実際には虫喰い状態の内容で、どこにもはっきりと両者が接吻していた、とは記載されていないのである。正典として認められていないのは、グノーシス派の福音書だからという理由によるものである。

  • 「レンヌ・ル・シャトー」の伝説

ダン・ブラウンは歴史的出来事を掲げながら、実際には想像を補いながら虚偽の歴史的事実を捏造し、読者に歴史的事実を検証させる余地を与えずに、テンポのよいサスペンス仕立てで読者を惹きつけ、強引に自説に引き込んでいるに過ぎないのである。これは明らかな歴史の悪用である。


あたかも歴史文書であるかのように用いた例として、レンヌ・ル・シャトーの伝説が挙げられる。ダン・ブラウンによると、レンヌ・ル・シャトー村の司祭、ベランジェ・ソニエール神父は、イエスとマグダラのマリアとの結婚と、彼らから生まれ、後の「パリを築いたメロヴィング朝」の先祖となる娘の存在を記す家系図を発見し、それをもとにバチカンを脅迫し、大金をせしめていた、という。この伝説はどのような歴史的文書から由来しているのだろうか(そもそもパリを築いたのはメロヴィング朝ではなく、それよりも700年も遡るパリシー族である)。実は1967年にソニエール神父についてジェラール・ドゥ・セッドによって脚色された小説が元になっているに過ぎないものである。歴史的文書を用いた訳ではないのである。


この他、Q文書、グノーシス派の福音書、グノーシス主義、秘密文書、ダ・ヴィンチの作品「最後の晩餐」などについてまだまだ言及したいものがあるが、機会があればその時に譲りたい。

  • 「ダ・ヴィンチ・コード」への個人的見解 

ダン・ブラウンは『ダ・ヴィンチ・コード』をフィクションとして掲げることを拒否しているそうである。自説の論拠として様々な歴史的出来事を列挙し、歴史的事実を元に学術・論理的展開を装っているが、実際には歴史的事実を迷信や伝説に都合よく結び付けながら、歴史的事実を歪曲し、自説展開に悪用しているに過ぎないフィクションである。


キリスト教の信仰は迷信の集約ではない。歴史・神学・聖書学者達などの地道な研究の積み重ねと、教会の長い歴史の様々な歩みの中で、キリスト教の信仰は試され、磨かれてきたのである。同様に私たちキリスト者は『ダ・ヴィンチ・コード』を通して、信仰をもって理性・知識を働かせながら、小説なり映画鑑賞に臨むことが求められているのだと個人的に考えるのである。


最後にあえて『ダ・ヴィンチ・コード』の意義を挙げれば、普段ほとんど意識したことのない信仰形成に関する歴史的な内容に対して様々な反論の場と、我々の信仰の根拠を問う機会を提供したことだろう。