山下神父様と行く「聖母ご出現の地メジュゴリエ巡礼」第6日

巡礼最後のごミサです。この巡礼中に神と出い、その御業に触れ、お恵みを発見しました。
これからの生活にどれだけ具体的な変化がみられるか、生きる姿勢に反映されるか、変えられていくかに神の御業があります。
 今日の御言葉には具体的な愛徳について書かれています。レビ紀の中でモーゼは『あなたたちは聖なるものとなりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である』と言っています。神は聖なる方です。マタイ5章には『天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者になりなさい』とあります。
具体的にこの地球上で行っていくこと。モーゼは最後に『自分自身を愛するように隣人を愛しなさい』と言います。神は聖であるから、人も聖になること。人に対する愛を強調してモーゼは締めくくっています。メジュゴリエのメッセージも神と人との平和、人と人との平和が強調されています。神が聖であるから人も聖になること、お互いに愛し合うこと。これは旧約に続く一貫した教えです。
 その前にあるのが許しです。周りの悪に対し復讐しない。うらみを抱かない、許すこと。同胞を正しく裁きなさいとありますが、実践は難しいです。私たちの弱さをご存じでこのように述べられます。
 マタイの福音では右と左の二つのグループに分かれています。第二バチカン公会議ではこの裁きについてあまり強調されていません。しかしこれは教会の教えです。メジュゴリエの子供は煉獄と地獄を見ました。神の御言葉への反応によって二つのグループに分かれています。もっとも小さい人にしたこと
はイエスにしたことである。正しい人はいつそんなことをしましたかと尋ねます。謙虚に、人には見えないように周りの人々に良い業を行いました。一方、私たちが振りかざしている間は愛徳ではありません。
愛徳の業を行った時、心の中と目に見える部分が割れていることがあります。人からよく思われたいとか名声を考えて行っている。謙虚になって良いことをした時には、右手がしていることを左手がわからないように謹んで、目立たないようにしなさい。
 永遠の罰を受ける人は、私たちはいつも良い業をしてきましたといいながら、隣にいる小さな人を忘れていました。良い業の真ん中にいるのは私。自己中心的で隣にいる苦しい人のことが見えません。困っている人を助けていません。厳しいイエスの言葉です。けれども私たちが考えたいことは希望です。私たちには足りないことがたくさんあります。日常生活に帰って行く時、希望、イエスへの希望を持つこと。人の弱さを体験された、キリストから力をもらいましょう。巡礼で神の恵みに触れました。けれども日常の平凡さの中でどれだけ神に触れるかが一番大切なことです。キリスト教を生きるのに難しい状態にある中で、神とともに生きると。典礼の中で感じることを日常に感じるなら、キリスト者としての幸せと喜びをもって生きることができます。マリアの御取り次ぎにより実りがありますように。
巡礼の最後のミサですが、長い先のことを考え、天の国に召された時、最終目的である天の国を目指し、喜びと平和のうちに神の国にむかって歩んで行きたい。
 
 
 



新しい祭服と神父様。