「スイスでの黙想の旅」第5日

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スイスの首都ベルンの三位一体教会のクリプタでごミサと黙想会がありました。

 

「タラントンのたとえの話です。持っていない人は持っているものまで取り上げられてしまいます。1タラントンを頂いた僕は、主人の金を隠しておいた。このタラントンは大変な額の財産であるが、神の目からみたら取るに足りないものです。どんな、貪欲にも注意しなさい。最後の僕が1タラントンを思いきって商売に使って借金をしてしまったとしても、神はそこまで追求されなかったことでしょう。この人は、自分が神を知っているものと自負しているところが一番悪いところです、頂いたものは自分のためだけに使うのではありません。神様について知ったかぶること、神はこうだと決めつけることは危険なことです。時として間違った神概念を持って、頂いたものをしまっておく。財産にしがみつくなど。頂いたものは、神のため、人のために使うこと。頂いた命を、息子アウグスチヌスの回心のために与え、祈り続けた聖モニカの取り次ぎを願いましょう。」

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ごミサの後、ご聖体が顕示され黙想が続けられました。

 

「ローマ書に、罪が増えたところには、恵みはさらにいっそう豊かになりました、と、書かれています。今日まで創世記の1と2章を読んできました。初めには、完全な調和が存在していました。関係性の調和。神と人との間に。人は、神の似姿として創られ、裸でありのままの自分を生きていました。人と一つ一つの被造物の間にも調和がありました。しかし、人間の罪が調和を崩します。完全な関係性が壊れてしまいます。創世記3章に、蛇は女に言います。園の中央にある美味しそうな木の実を食べ、男にもあげました。何故蛇が登場するのか?神から離そうとする蛇がいるのか?カトリックでは、悪魔の存在を認めています。肉体を有さない霊的な存在であり、神に仕えるために創られたが、反対して、反抗するものとなりました。悪魔はだまし、そそのかします。誘惑に揺れている。神が言われた通りではなく、誘惑されている人の言い方に代えている。神のようにすべてのものを知るようになる。誘惑されて、悪が広がっていきます。神との調和、人間同士の調和が崩れ、自分のみじめさを

生きるもの、裸であることを知り、隠す。自分のありのままを隠す存在になりました。強いきずな、完全な調和が崩れます。神に反することをするようになります。神は、何をしたかとは言いません。どこにいるのか?とたずねます。アダムに、自分の立ち位置をあらためて考えさせます。神への怖れ、恐怖から隠れなければならなくなりました。女性からアダム、アダムから蛇と責任転化がされます。原罪の後、人間同士が行ったことは責任転化でした。私が悪かったと言えませんでした。神にまで責任転化をしようとします。一人の人にではなく、周りの人に対しても責任転化をします。マルタやマリアだけではなく、イエスさまにまで。放蕩息子の兄も父親にまで責任転化をしています。そして、聖母から生まれるキリストが蛇の頭を打ち砕きます。人の命を伝達する時のとてつもない傷み、生きていくための苦しみの理由、死の現実などは、神への反抗の結果です。アダムとエワに皮の衣を着せることは、神の特別な愛情表現です。罪の後も人を見捨てられなかった。けれども、人間の悲惨な

歴史がつづきます。カインとアベルの殺し合いや嫉妬や妬みから人を殺すなど。私たちの今の生活の中にもあります。今回、ローマ書を読んだのは、罪にまさるキリストの死を通して頂く恵み。恵みの連波、希望の命、現実は闇におおわれているが、キリストにすべての信頼をおいて生きること。人の悪や罪に接する時、ただ嘆くのではなく、悪が増したところには、神の恵みとあわれみの視線が特別に注がれています。このような日々を送れますように。」