「ダ・ヴィンチ コード」その3

シリーズ完結編

スタッフによる雑感第三弾です。
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  • 早くもブームは去れり・・・

週末に「ダ・ヴィンチ コード」を観て来た。吹き替え版だったせいもあるかもしれないが、もうすいていて、ブームは去ったことを実感。
評判どおり、たしかに原作を読んだ身としては物足りなさも残る内容だったが、あれだけのボリュームをよく2時間半に、ほぼ原作に沿ってまとめたことには、さすがだな、と思わされた1人だ。

今回、「ステラ社員のダ・ヴィンチ コード」と名づけて会社のブログという場で意見を出してきたことは、ステラにとっても、私にとっても、少し冒険だった。でも、ぜひその冒険をしてみたかったのである。
もともと巡礼旅行の様子を家族に知らせるためにはじめたブログ、その中で、世の中のブームにのって、多少踊らされながら、「ステラスタッフなりの意見」を出すことに、果たして意味はあるのか・・・賛否両論、最初はどちらかというと社内では否定的だった。


ブログに出そうと言い出した責任上、最後は私が何かしらの言葉で締めなければならないらしい。他のスタッフの、カトリックの信仰に根ざした重みのある意見にくらべ、うすっぺらい、軽い文章になることをどうかお許し願いたい。

  • 教会から離れていた自分

唐突だが、私は幼児洗礼だ。小学校の頃は毎週日曜学校やミサに家族とともに行っていたが、その後、足が遠退いていた。ひどい頃は、年一回、クリスマスのときだけミサにいくような信者だった。
年頃の反発もあったのかもしれないが、カトリックの学校に通いながらも、教会から心も体もはなれていた時期があった。
今ではごく自然に日曜日はミサ、という生活になったが、そのきっかけは、海外生活をした際、現地の日本人カトリック会にかかわるようになり、教会の仲間の存在と、自分たちの生活の距離が近かったことが大きかったのではないかとおもう。そのチャンスにめぐりあわなかったら、今頃どうなっていただろう、と思うこともあるが、その数年で、私の意識は確かに変わった。

  • あせる気持ちと思い込み

その頃、同時に私のまわりでカトリックの洗礼に授かる人が増え始めていた。皆、大人になってからいろいろと考え、カトリックの教えにひかれて勉強し、勇気をもって教会の門をたたいた人たちだ。そんな姿に刺激され、あらためて「自分の信仰とは」と思い起こしたり、人に伝えようと努力したり、という機会が増えた。


でも悲しいことに、そういったときに私は自分の言葉で、自分の信仰を人に伝えることが、どうしてもうまくできなかった。そしてその状況は今もあまり変わっていない。
また、カトリックの教えには、それぞれが自分なりの「キリスト像」を持ち、信仰を続けていけるような自由さがある反面、なんとなくつきはなされたつめたさのようなものを感じることがある。また、苦しんでいる人、困っている人に手をさしのべ、天に宝をつむ、というような自己中心的でどことなく偽善的な印象に、しばしば反発を感じることもあった。


それは私の勝手な解釈かもしれない、印象で判断してはいけない、本当はそんなことないはずという思い、そして自分の信仰を自分の言葉で伝えたい、という思いから、しっかりと勉強しなおして、信仰をより強いものにしていきたい、という気持ちがずっとどこかにあった。

  • 「時」の縁

今年にはいって会社のホームーページ(サイト)を手がけることになり、時を同じくしてこの映画が世の中で騒がれるようになり、これは私にとって不思議な縁だったと今では思う。最初はとにかくホームページやブログと言う、影響力のある存在となった公共メディアを使い、世の中の誤った考えに対し、意見を発信することには意味があるという思いでつきすすんだ。


結局スタッフに協力してもらい、それぞれの思いをブログにのせてもらった。それなりに反響もあり、何か発信する、ということは大事だと確信した。特に批判的な反応はなかったが、あったとしてもそこからまた何かが生まれることもあると思っていた。

  • 「騒動」から得たもの

でも、冷静に思い起こしてみると、そんな風に肩肘はって「何か発信しないと」としていた自分は、どことなく私が反感を感じていた「自己中心的で、偽善的」な、まさにそんな姿勢だったような気がしてきたのだ。そう思うと、ちょっとゾッとした。
そして実はこの騒動を通して得たものは、誰かに何かを発信できたという自己満足ということでもなかった。


自分が世の中の動きに対してとまどい、ゆさぶられ、様々な角度から見つめなおす過程で、いろいろな人の考えを知ることが出来たことは、私にとって本当に大きな恵みだった。また、興味のおもむくままに手にした本からは、今後自分で勉強していきたい方向性を与えてくれるものもあった。
今自分には、聖書をしっかりと読み、キリストの言葉を正しくとらえようとすることが絶対に必要だ。それによって今までの勝手な思い込みが少しずつ解かれていく道すじが見えてきた気がする。ああ、危ないところだった。

  • 私のこれから

日本でのカトリックは、様々な迫害や殉教の嵐を超えてきたという歴史がある。それにくらべたらほんのそよ風のような今回の騒動によって、カトリック信者ひとりひとりがむしろ自分たちの信仰をより深いものにしていけたとしたら・・・いや、もう人のことを言うのはやめよう。少なくとも私は、いろいろな意味でより深まった。それを人にも、と押し付けてはいけない。
皆がそれぞれの立場での思いを持ちながら、「大人」の対処をしていけたら、それでいいのではないかと、とりあえず今は思う。


ただ、ついつい自分がいいと思うと人にも、と思ってしまう性格からか、なかなか自分の中でとどめておくこともできないのだ。でも信仰については、あせらないようにしよう。これからゆっくり自分と向き合い、そのうち心の底からわきでてくるような気持ちを持って、いつしか神の国を広げていくお手伝いが自然にできるようになっていれば、と願う。

乞うご期待!?

「ステラ社員のダ・ヴィンチ コード」はこれで終わりにします。今後も、機会をみながら世の中にすこしアンテナをはりめぐらし、多少カトリック的な情報を発信していこうということで、話がまとまりました。今後のブログにご期待ください・・・