「萩・津和野巡礼」第2日

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聖フランシスコ・ザビエルは、みやこの退廃ぶりにがっかりし、ここ山口で大内氏の許可を得て宣教活動に励んだ。短期間に多くの人々が改心し、その中には、後に宣教師として大活躍した、琵琶法師ロレンソ了斎もいた。




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ごミサは、「フランシスコ・ザビエル記念聖堂」で捧げられました。

「昨日の福音で、弟子たちが誰が1番か話し合っていた所、そして、小さな子供のようにならなければ天の国には入れない、そして最後にはイエスの名によって悪霊を追い出していたが、それをやめさせようとしている。この一連の出来事に表れる弟子たちの不理解が、特に十字架に対する不理解とイエスの福音の本質を理解できない こと。歓迎されないからとの理由で天から火を降らせましょうかという弟子たち。そもそも天から火を降らせるのは神です。そこから力を見出すならよいが、ここからイエス・キリストは十字架に向かいます。1つの方向性が決めら、十字架にますます近づいていきます。私たちにも小さな十字架、大きな十字架がいろいろあります。いずれにしても、それを選んで向かっていかなければなりません。イエス・キリストがなさったように、覚悟を決めて、私たちもその十字架を背負わなければなりません。多くの人は十字架を担うことは大変なことと思っていますが、十字架を担うことによって、それが救いになります。あなたの魂は平和になります。救いの力を十字架は持っています。インマヌエル、神はあなたと共におられる。今日祝日のリジユーの聖テレジアに取り次ぎを願いましょう。」

(文責:小池俊子)




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教会の方が説明をして下さいました。



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地下の資料館には、ザビエルに関する貴重な資料が展示されています。




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教会の中庭では、幼稚園の皆様が来週の運動会の練習をしていました。




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フランシスコ・ザビエル記念公園です。大道寺跡に造られました。大内氏から頂いた廃寺がザビエルとその同士の家でした。




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昼食はこのような感じです。たくさんですね。



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瑠璃光寺五重塔は、美しく聳えています。ガイドさんの力の入った説明に皆様耳を傾けています。




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吉田松陰を祀る松陰神社です。キリスト教では、たとえどんなに偉い方でも、亡くなって神になることはあり得ません。

松陰は、死刑に向かう前に次のように詠みました。

親思う こころにまさる 親ごころ

きょうの音ずれ 何ときくらん



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小さな和室に幽閉された松陰は、その部屋で正座して学問に励んだ。

やがて多くの若者や子供たちが松陰から学ぶために集まってきた。



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10月1日、今日は「幼きイエス聖テレジア」の記念日です。

車中、神父様が聖テレジアについてお話しをして下さいました。

聖テレジアは教会博士であり、宣教の守護の聖人です。どうして宣教師の守護の聖人なのか考えてみなければならないと思います。

生活自体は限られた観想修道院の中でした。しかし誰よりも強い宣教の熱意、非常に強い熱意を持って、全ての人が神を信じるようにと願っていました。有名な話に神を否定していた死刑囚の回心があります。彼はリジユーの聖テレジアの取り次ぎによって罪を認め、死刑執行の前に改心しています。

新しく洗礼を受ける人達の多くが、この聖人のお名前を選んでいます。それは、彼女の徹底した神様への信頼ということからです。本など読んでいますと、甘えとかべったり頼って自立していないという風にみられますが、歴代の教皇様もおっしゃっていらっしゃるように、このように文明が発展した世界にある、自分ができることに強く執着している面のある世界であっても、人間にはどんな時代になってもできないこと、勝てない病気とか、人間が思い通りにならないことが沢山あります。そのような中でリジユーの聖テレジアは、神に頼って生きるということを徹底的に生きた人です。そのためには、彼女が教えている、子供のようになることそれがとても大切です。全能の神がいて、その愛の結晶として私達は命を頂いて、大人になっても神の子です。神様に頼ることがなければ、私達は自分の力だけで生きようとしてしまいます。それには行き詰まりがあって、私達信仰を頂いたものとして、神に頼らない生き方は悪いことです。神が示して下さった愛と、送って下さった多くの恵みとか助けとかをベースにして、感謝しながら、今からの自分の生活にも助けと恵みがあるということを確信して、それに信頼して生きることが信仰生活ではないかと思います。

リジユーの聖テレジアの著書を読むとき、自分の一番信頼している、親への信頼のようなものを神において行く、そのような道なのではないかと思います。それは、完徳に至る道だと教皇様方が説明してきました。

もう1つは殉教のことです。いったん転んだけどまた帰ってきた。ここにキリスト教の真髄があると思います。良いこと、素晴らしいことというのは、失敗しないことではなく、失敗した後に、それを認めて許しを願うこと、そしてもう一回やり直すこと。こちらの方が人生においてとても大切で、とても美しくて、人間の崇高さは失敗しないことにはないのです。そういう人がいたら人間味はないし、失敗しない人生というのはあり得ないし、失敗のない人間というのはある意味ロボットみたいで、そういうところに人間の崇高さはないと思います。崇高さとは、間違っても認めて、謝って、やり直すこと。同時にそれは、そういう人間を受け入れること。それを許しと言います。ですから私達はまず自分の失敗、間違い、どんな小さな失敗でも、大きな失敗でも、大切なのは失敗したかしなかったかではなく、そこからまたやり直すこと、こっちの方が百倍、二百倍大事です。イエス・キリストが十字架の道行で三回倒れられたということは、そういう意味だったと思います。模範が詰まっていたということです。自分の足りない点、弱い点を認めて出発できる、それが自分の本当の強さとするなら、それは人に対する愛と優しさという強さの曲面に変わります。だから、本当の意味で自分が弱いもの、小さいもの、失敗してもそれを認めてやり直せる人は、同じように、人に対しても与え、見せてあげなければならないと思います。」(文責:小池俊子)



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お夕食の時にリジュー聖テレジアの霊名を持っている方、傘寿、喜寿、お誕生日と皆様のお祝いがありました。萩教会の主任・恩地神父様もいらして下さり、とても賑やかで楽しいひと時でした。