山下神父様と行く「ロシア巡礼」第6日
こんなに素晴らしい天気に恵まれました。神様に、マリア様に感謝の言葉、ありがとうしかありません。
この建物はスターリン時代に、アメリカのエンパイアーステイトビルを模して造られたましたが、スターリンはアメリカのモノマネは気に入らないと、てっぺんだけを変えたそうです。
2番目の写真は集合住宅です。モスクワには個人の家はなく、このような集合住宅に住んでいます。
車窓から駅が見えます。ガイドのマリアさん、昨夜は遅くまで、また、今朝は早くから頑張って下さっています。
1937年パリ博覧会の時に、ソ連のパビリオンの上に設置された「労働者と農民」の碑は、当時のロシアを象徴するものです。
渋滞の中、車中で神父様が朝の祈りをして下さいました。
「新しい朝を感謝して祈りましょう。
今日はバルトロマイの祝日で、福音はナタナエルについてです。アラマイ語でバルは子供、トロマイの子供という意味です。ミケランジェロの最後の審判の絵にも描かれているように、皮剥の刑で殉教しました。アルメニア教会では、バルトロマイへの強い信心があります。
教皇ベネディクト16世はバルトロマイについて度々長い講話をなさっています。ナタナエルとは、ヘブライ語で神は与え給うという意味です。ユダヤ人には、イチジクの木の下でラビの話を聞くという習慣がありました。イエスから弟子としての姿勢が認められました。
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彼は、旧約に良く通じ、聖トマスのように、懐疑的にイエスに近づく人でした。フィリッポは、「来て見なさい」と言います。
人々を回心に導くのは私の思いや正義感などで人を引っ張ってくるのではありません。その人と神の出会いのみに回心があります。私たちの中には人々を変える力はありません。神がその人のなかで働かなければなりません。神の愛、慈しみ、神の全てを総括する愛が全てです。「愛が無ければ、無に等しい」。
巡礼とは、イエスの元に行って振り返ることです。神が準備、配慮して下さった全てに、また、人から受けた沢山の支えに気づくこと、これが大切です。神の愛に少しでも多く気づくことができるように私たちの人生を振り返ってみましょう。」
聖歌、”主よあなたの道を”
モスクワから渋滞の道を2時間程走り、トロイツェ・セルギエフ大修道院にやってきました。セルギーは、祈りの人で、隠遁生活をしていました。彼の元に多くの人が集まるようになり、670年、この修道院が創立されました。それ依頼、ここはロシア正教の聖地となり、モスクワから多くの人が来るようになります。貴族や支配者も巡礼に来て、修道院は次第にきれいに、豪華になりました。
ロシアには白い 聖職者と黒い聖職者がいます。白い聖職者は、一回だけ結婚できます。黒い聖職者は独身で、とんがったぼうしを被った人は普通の修道士で、四角い帽子をかぶった人は位が高い聖職者です。
ここセルギエフ修道院には、聖職者が200名ほど、また、神学生が700人ほどいるそうです。
熱心に祈る信徒の姿が印象的でした。
車窓より白樺の木を眺めながらススダリに向かいます。
ウラジミールのカトリック教会には、渋滞のために1時間半遅れに到着しました。別のグループのごミサがあり、その後には、コンサートがあるとのことでごミサは教会では、できませんでした。
ウラジミールからスズダリのこじんまりした街に向かいます。
スズダリのホテル着後、すぐに会議室をお借りしてごミサが行われました。
「今日記念しているバルトロマイは、ヨハネ福音書の中では、ナタナエルという名前で登場します。ヘブライ語で神は与えたもうという意味を持つナタナエルは、師の言葉を良く聞き、学ぶ弟子の1人として描かれています。
しかし、この人が本当にイエス・キリストについて行くには、単なる善意に基づく努力だけでは不可能であったこと。本当にイエス様に出会って、自分がこの人と話して、その人が語りかけられる言葉を聞いて、理解して、その上でついて行くことが、今日の福音の箇所で描かれています。
私たちの多くは善意を持ったり、その善意に基づいて努力をしたりといった所までは、もちろん、私たちのなすべきことであると思いますが、キリストに出会うということがなかなかピンと来ないのではないかと思います。
私たちは、例えばパウロの回心のように、ある時天から声が聞こえたり、光が見えたりするわけではありません。しかし、そういう人もいるかもしれませんが、通常は、神の声、キリストとの出会いということは日常の中にあるということ。日々語りかけて下さる神さまの声、日々、私たちに配慮して下さっている神の愛に、その日常において気づくということ。これが非常に大事なことであると思います。
私たちにとって、時として障害になるのは、マルタとか、放蕩息子の兄のように、日々の生活は一生懸命にがんばっていても、神のこと、神の思い、悲しみ、隣の人の気持ち、思い、喜び、悲しみということに全く気づかなくなってしまうということだろうと思います。それは、マルタや放蕩息子の兄がそれなりに頑張っていても、神さまとの出会いから遠く離れてしまう。その人間の弱さであろうと思います。今日、ナタナエルがキリストと対話している言葉の中には、あなたを知っている、知っていたという言葉があります。
見るという動詞がありますが、ヨハネ福音書では、見ることと知ることは重ねて使われています。そうすると、私はいつもあなたを知っている、見ているというのは、キリストの視線を感じた時にナタナエルの心が大きく開かれます。ここに私たちへの模範があり、向けられている神の視線、神の声といったものに実際触れて心を開くことがなければ、私たちの霊的な歩みは、とかく曲がった方向にいきがちですし、なかなか、そこでは神と出会えません。
神と出会えないと人間の努力が空回りしているような状態になってしまいます。神が招いておられるのはそういった部分であって、神の先行する愛、許しとあわれみ、慈しみといったものに心から触れること。日常の生活で気づくこと。
そして、その気づきの中から、神様に自分自身が心を開いて行くことだろうと思います。そのように歩まなければ私たちの心は決して満たされることはなく、逆に干からびてしまい、乾ききってしまいます。
このミサ聖祭というカトリック教会の最大の祭儀において、そういった神の恵みが私たちの心を満たして下さいますように。そして、私たちの心が、潤されていくこと。それを願いたいと思います。
聖母の取り次ぎによって、そのお恵みが豊かに与えられますよう、お互いのためにいのりたいと思います。」
ごミサの後は、夕食です。スズダリはキュウリの産地とのこと、キュウリのサラダおいしかったです。