サンクト・ペテルブルク最後の日になりました。
今日は「エカテリーナ宮殿」訪問です。
車中、神父様が朝の祈りをして下さいました。「今日は聖母の元后の祝日です。ピオ12世の在位は、第二次世界対戦の間でした。さまざまな批判がありました。特にユダヤ人の迫害に対して批判がありますが、今、列聖調査が始まっています。この教皇様が「聖母の被昇天」の教義を発表なさいました。戦争の只中の教皇様だったわけですが、聖母マリアに関する重要な教義を制定なさいました。日本の戦争、平和に関する日には必ず聖母マリア様の介入があります。・・私たちカトリック信者にとって聖母信心はキリストへの信仰に次ぐ大切なものです。取り次ぎ手の力に信頼して、聖母に委ねましょう。神の母を私たちには与えて下さったことに感謝し、聖母の取り次ぎを願いましょう。」
サンクト・ペテルブルクの南約25kmの所にあるエカテリーナ1世、エリザベータ、エカテリーナ2世といった女帝に愛されたのが、夏の離宮・「エカテリーナ宮殿」である。
宮殿の内部保護のためにビニール製の袋を靴のカバーにして中の見学をします。
ピョートル大帝の妃・エカテリーナへの愛が、このような豪華絢爛の建物建設を可能にした。
エカテリーナ宮殿には、内部を琥珀で覆った「琥珀の間」があります。元はプロセイン王が造らせて、後にピョートル大帝に贈られたものです。
当時、デルフトの陶器も非常に高価なものであり、部屋の暖房に使われている。
クルーズで到着したグループもあり、中はなかなかの混雑でした。
紙で作られたエカテリーナ1世や宮殿の模型なども飾られています。
フランスの宮殿や庭を真似て造られたとのことで、ヴェルサイユを彷彿とさせる雰囲気があります。
次には夏の庭園へ。
エルミタージュ美術館を見学した昨日は雨が降り、庭を歩く今日はこんなに良い天気に恵まれました。神さま、そして、今日「天の元后」のお祝い日の聖母に感謝を捧げつつ、いたずらの噴水とか、シメトゥリーに整備されている庭園を歩きました。
目の前にはフィンランド湾が。お花も綺麗に咲き誇って、いたずら噴水の下を駆け抜ける子供達の叫び声に、皆さまも童心に返り楽しそう。
ごミサは、サンクト・ペテルブルクの「被昇天の聖母カテドラル」で捧げられました。
今日は、天の元后聖マリアの記念日です。
この記念日は1954年にピオ12世教皇によって定められました。同教皇は1950年に「聖母の被昇天」を教義とし、この祭日を8月15日に祝うよう制定されました。聖母の被昇天は、私たちの模範として聖母がこの世の生活を終えられた後天にあげられ神の栄光に向かえ入れられたことを意味します。つまり、私たちもそのように召されていることを明確に示すためだったのです。そして、15日から1週間後の今日、22日に天の元后聖マリアの記念日を祝うということは、栄光に入られたマリア様ご自身が、天の国で私たちもそうなるように取り次いでくださることを確認するためでもあります。
すべては、感謝すべきことです。人間のために、その救いのために、ご自身の母をも与えて下さる神の子イエス・キリストに感謝して、このような配慮をすべて受け止めること、これこそが私たちにとって大切なことなのです。実は、そのテーマが今日の福音です。マタイ22章1-14節には、王が催した婚宴、それを断った人々と、その後そこに召された人々のたとえです。これは、聖書的には、選ばれた民ユダヤ人が救い主であるイエスを拒否したために、神が準備してくださる宴(救い)は他の民族、すべての人に向けられていったという話ではあるのですが、まず、人間が神の配慮を断るということに注目しましょう。
神は最高のものを与えるために最善を尽くして色々と配慮してくださっているのに、人間はとにかく自分の生活や仕事、思い、感情等々(それ自体が別に悪いものではなく、よいものであるかもしれませんが)、とにかく自分のことを優先させて神様のことを拒否します。正論であっても、人間が自分のこと(考え、思いなど)、この世のことを優先させると神様の配慮さえもわからなくなってしまうのです。そして、そこに生まれるのはいつも不平不満です。ですから自分の心にそれが感じられるときは注意しましょう。自分は、とにかく自分の方(考えや思い)に、人を、そして神をも合わせようとしていること。そこに救いはありません。自分を中心に作り上げる世界は、罪の世界だからです。むしろ私たち自身が人の思い、そして何より神の思いに合わせて、自分を変えていかなければなりません。神は、ご自分の子さえも与えて、私たちを救おうとしてくださっているのですから、その最高の救いの恵みに合わせて、私たちが自分自身を変えていくことこそが救いの道なのです。
よく考えてみましょう。いくら正論であっても、自分の考え、正義観に基づく自分の理想に人を変えても、それは単なる自己満足にしかすぎず、自分の救いは底に得られません。と言うか、そもそも人を自分の考えに合わせて変えることなど、しようとしてもできないはずです。そこで苦しむ私たちは、むしろ、神が無償で提供してくださる食卓、婚宴、つまり、神の絶大な恵みに心を開き、それを感謝して受けとめ、それに対して自分を変えていかなければならないのです。
恵みに対して自分を整え治す必要は、「礼服を着て」婚宴に参加しなければならない、という今日のたとえの中に描かれています。礼服を着ないで入ってきた者は、王から外につまみ出され、その後歯ぎしりすることになります。無償で招かれている神様の婚礼の恵みを知っている以上、それに向かって自分を整え直して、つまり、きちんと準備してその恵みに向かう必要性を今日のたとえは語っています。
その歩みの中に、マリア様が働いてくださることは間違いありません。今日のミサの中で、そのお取り次ぎを願いながら、お互いのために、ともに祈りましょう。(文責:小池俊子)
また、食べるのですか〜。でも、頂き始めると、不思議に美味しく、平らげてしまうのです。
ギリシャ風のサラダと串に刺した豚肉でした。