山下神父様と行く「五島列島巡礼の旅」第3日

f:id:jyunrei:20181025083311j:plain f:id:jyunrei:20181025083622j:plain

f:id:jyunrei:20181025083628j:plain f:id:jyunrei:20181025084045j:plain

ガイドのOさんがこよなく愛する、所属の教会です。海端にある可愛い教会で、入り口にはルルドがあり、いつもとても綺麗にお掃除が行き届いています。

 

 

 

 

f:id:jyunrei:20181025085506j:plain f:id:jyunrei:20181025091823j:plain

f:id:jyunrei:20181025092030j:plain f:id:jyunrei:20181025091940j:plain

こんなに青い空と海。80段の階段をふーふー言いながら登りきった所に、手を広げて「来なさい!重荷を負うもの」と待っていて下さるキリスト像が。

 

宮大工・鉄川与助さんの傑作「大曽教会」です。

 

 

f:id:jyunrei:20181025100135j:plain f:id:jyunrei:20181025100640j:plain

f:id:jyunrei:20181025101006j:plain f:id:jyunrei:20181025101725j:plain

f:id:jyunrei:20181025101731j:plain

聖家族に奉献されている「鯛ノ浦教会」です。由緒ある古い教会は、現在、子供達の「けいこ」(公共要理)に使われています。

 

 

 

 

f:id:jyunrei:20181025130635j:plain f:id:jyunrei:20181025131215j:plain

f:id:jyunrei:20181025131609j:plain f:id:jyunrei:20181025131906j:plain

f:id:jyunrei:20181025131057j:plain

世界遺産に登録された「頭が島教会」です。いろいろな規則が出来て訪問しにくい感がありますが、仕方がないのでしょうか?命をかけて信仰を守ったキリスタンの教会に、行政が入り込み過ぎないようにと望みます。

 

 

 

 

 

f:id:jyunrei:20181025165251j:plain f:id:jyunrei:20181025143108j:plain

f:id:jyunrei:20181025150552j:plain f:id:jyunrei:20181025143319j:plain

f:id:jyunrei:20181025150517j:plain f:id:jyunrei:20181025150612j:plain

今日のごミサは「青砂が浦教会」で捧げられました。山下神父様が心をかけられた(いつもですが)少し長いお説教ですが、私たちに必要な大切なお話です。ぜひ最後までお読み下さい。「今日の福音は、イエス・キリストが分裂をもたらすとの、多くの読者が疑問を感じる箇所です。律法という当時の絶対的な価値観、十戒の中の父母を敬え、家族を大切にとの箇所を踏まえてここを読まなけらばなりません。イエス・キリストが訴えたことは、決して、家族をないがしろにしていいとか、家族と対立していいということではありません。では、イエス・キリストのこの分裂と死の預言は、何故なのでしょうか?

このためには迫害という背景を知らなければなりません。313年の「ミラノ勅令」まで続いた迫害です。ユダヤ人たちからは、同胞ではあるが、変わった集団であると位置づけられ、ローマ帝国からは、政治的な背景に基づく迫害がありました。そのため命をかけてキリストを信じることは、家族の分裂を招いたわけです。自らキリストを選んだことによって、家族を捨てなければならない人も沢山いました。これは、知っておかなければいけないことです。また、どうしてイエス・キリストがもたらした十字架が人を分裂させるかということも知っておかなければなりません。人の真価が問われるのは、十字架を通してだけです。分かりやすく言うと仕事や、経済的なこと、いろいろなことがうまく回っている時には、人の真価は見えません。しかし、人の真価は、十字架が襲ってきた時、苦しみ、痛み、特に、私たち自身に責任のない所に十字架が降りかかってきた時に、その人の真価が問われます。この考え方がイエス・キリストがもたらした福音です。これは、全ての人の救いの教えですが、この救いは神が十字架の上で命を捧げるということで完成しました。そうすると、十字架を通らずして復活や、希望、救いの道はありません。この十字架の死は、全ての人の救いのためになされました。けれども、十字架をどのように受け入れるかによって、人の道は決定的に違ってきます。これは、私たちが良くわかることです。ある人は十字架と向き合って闘うことができますが、ある人は逃げてしまいます。また、ある時は、私たちも十字架と向き合って闘うことができますが、別の時は逃げてしまいます。このように十字架を通して人の道は、右と左、前と後ろに方向性が分かれてしまいます。これが、イエスの論点としている分裂の意味です。私たちの心に真理への憧れや、救いへの炎が燃えていたらということです。これに火がつくと、たしかに私たちは、今の自分の中にある足りないもの、良くないものを切り離していかなけらばならないので、私たちの心の中に対立というか、強い衝動を伴う動きが出てきます。イエス・キリストはこれを家族との分裂という風に表現しています。私たちの中には良いものも、悪いものもあります。イエス・キリストのなさった救いの業が十字架を通して完成されたので、自分の中の対立と闘い、真理を見出した時には、大切なものをも切り離さなければなりません。そのため、大切な家族をも捨てなければならないのです。心の中の火が燃え上がっていたらというキリストの願いは、私たちの真理への憧れです。これに全身全霊をかけるなら、それ以外のものを横に置いて、神に向かっていくことができます。そのように生きることができますよう巡礼の旅を続けていきたいものです。」(文責:小池俊子)