道北・道東の教会と大自然を巡る旅 第2日

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良い天気に恵まれました。神様、社長のマリア様、本当にありがとうございます。

 

富良野のラベンダーは満開でした。素晴らしいです。

 

車中、神父様がお話しをしてくださいました。「 モーゼの波乱万丈の生涯は、どの時代の、どこの人にも当てはまります。モーゼのように正義感に基づいて生きていても、すべての人に認められるものでもありません。人の一生の中で、その時、その時に起こっていることは理解できませんが、いろいろなことの中に神の導きがあります。許し合えないこととか、人の歴史には悪があふれています。が、神は、最終的には、すべてを善に導いて下さいます。これは、信仰の問題であり、大きな挑戦です。この信仰、希望を与えて下さるのは神です。私たちにできることは祈ること。私の生活は信仰に満ちたものではありません。もがきながら祈ること。この祈りの方に、意味があるのでは。そして、心は安心感に包まれます。神の善・救い・威光の前では、人のすべての悪が打ち砕かれます。今、日常生活から離れ、毎日の悩みから離れ、一番大切なことを考える機会になります。最も大切なことに気づかせて下さいますように。」

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教会に行く前に「富良野風景画舘」に寄りました。自然を愛し、風景画の多い奥田修一画伯は、「自然の中に身をおいていると、心洗われる瞬間に出会うことがある。・・・そんな時、私は、自分が生きていること、そして人間らしい歓喜につつまれていることを、最も強く認識する。おそらく、宗教的体験に近い感動であろう。」と言ってい。

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今日のごミサは「富良野教会」で捧げられました。

 

「ティロスやシドンなどの外国人に言っていれば、とうの昔に悔い改めていただろうに、と、イスラエルの町々を叱っています。神の回心の招きは、いつも私たちに向けられています。人のできない点を追及するのではない。自分に向けられたものとして読まなければ無意味である。多くの場合、人を追及し、裁いて終わっていることが多い。

 

①私が回心すべき、これが第一。

②よく見なさい。心の目と、耳を通して聞き、見ること。人の知性を通してだけでは神の声、神のメッセージを受け取れない。回心は、神の御旨がわかったからといってできることではない。御旨が分かっても決意ができない。神の愛を通してだけ回心ができる。神の愛を知ったら、自然に心は神に向かう。愛を抜きにして読むなら厳しいことばである。聖書は総合的に読まなければならない。自分が愛されていること、そこから力がでる。神の愛が私たちの心にしみわたるよう願いましょう。」

 

最後に、富良野教会のヒラリオ神父様が歓迎のごあいさつをしてくださいました。

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ごミサの前に昼食は「ふらのワインハウス」でハンバーグをいただきました。

 

ごミサの後、途中、トイレ休憩をしながらお買いものをし、層雲峡に向かいます。

 

車中、「晩の祈り」が唱えられました。「回心の必要性。ごミサやロザリオの祈りで、嘆きや心配事、悲しみ、苦しみなど、また、同等に、賛美と感謝も捧げます。・・・感謝と賛美は、恵みの袋の紐をゆるくします。日常生活の中で不平や、不満と、感謝や賛美の割合を比べてみましょう。この自然の中で私たちの日常で、どちらがより多いのか、について考えてみましょう。」

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バスが止まるたびに、北海道の美味しいソフトクリームや、ジャガバタなど食べて、食べて、また、食べているのですが、お夕食もまた、楽し、美味しです。身も心も健康な皆さまです。