山下神父様といくイスラエル巡礼

今日のごミサは聖墳墓教会にあるゴルゴタの丘の場所でごミサを捧げました。
イエス様が私たちのために罪を背負い無残に処刑されました。
「ここで神様〜、ごめんなさい!!と思ったのよね。何がというのは分からないけれど、ごめんなさいのところよね」とCさんがおっしゃいました。
私たち一人一人に向けられた大きな大きなイエス様の愛を感じずにはいられませんでした。人のために命を捨てる。これほど大きな愛はないという言葉が胸に響く場所です。


枝の主日の今日は行列が行われます。



先日訪れたクムランで見つかった死海写本の精密なコピーが大切に保管されているイスラエル博物館に行きました。


エルサレムの街のミニチュアを見ながら解説をしていただきました。
一度では覚えきれない!というのが本音でしょうか。また来ましょう。



枝の主日の行進に参加しました。1時間近く待っていた間、各国から来た巡礼団が聖歌を歌います。お国柄がよく表れた歌の数々に、静かで荘厳な枝の主日に慣れている皆様は少し戸惑いました。日本ではできない体験でした。




多少の雰囲気の違いはあれども、2000年前のイエス様も民衆に明るく熱気に満ちた状態でエルサレムに迎え入れられたのだろうと想像します。


行進の途中に、イエス様がエルサレムを見て嘆かれた「主嘆き給う教会」に寄りました。

今日もアイス日和ですね、Mさん。


逆光ですが、よい写真です。シュロの葉は日本に持ち帰られるそうです。



残すところあと2日となり、話にも花が咲きます。お名残り惜しくなります。


今日のお話
「枝の主日では、様々な人種や様々な祈り、歌が聴こえてきました。それはまさに違うものが存在しているエルサレムを象徴していました。違いとは、一方から見ると分裂を意味します。それは平和ではない状態です。家庭や職場、そしてイエス?キリストの下に集う教会ですら、人間関係の分裂から争いやいがみ合いがあり平和ではない状況があります。そして、分裂の中で一番辛いのは、自分自身の心の分裂です。そこでも、一貫性が求められ、一つのことを求めていくことで平和になる。平和の道を歩まなかったエルサレムを見て主は嘆かれました。平和のあるところには一致。一致していれば、平和といえます。主イエス?キリストの語られている言葉に耳を傾けてゆきましょう」