ルカ神父様と行く「信仰と観光の台湾巡礼」第3日

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太魯閣のホテルは最高でした。皆さま、昨夕、今朝とお散歩楽しんでいらっしゃいました。




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太魯閣の道路建設は、4年という早い年月で完成したのですが、そのためには226名の尊い命が犠牲になっています。

最後のお寺さんは、これら226名の犠牲者のために造られました。




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今日の御ミサは、花蓮の聖マリア新城教会で捧げられました。

「今日の福音の最後の言葉 "すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される"は、私に向けられた言葉と思います。皆さんに多く助けられ、日本語も上手くないのに、皆さんは我慢してくれています。宗教が違っても、種族が違っても、良きサマリア人の例えのように、人を助けます。皆、神の子だから、ルカも、怪我をして困っている人達を助け、このように福祉活動を通して神を伝えました。

 宗教は、難しい勉強よりも、お互いに助け合うことによって、伝えられていきます。言葉より行動で示すこと。」(文責:小池俊子)



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ルカ神父様と、スイスのジェラール神父様です。宣教師として神に捧げられたお二人は、初めての出会いなのに、昔からの友のようです。




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花蓮から墾丁へ列車で移動です。ここには新幹線がないために、4時間かかりました。




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墾丁国立公園の「猫鼻頭岩」を下に観ながら。皆さま、お元気です。

そして、こんなに大きなバスで移動です。

ルカ神父様と行く「信仰と観光の台湾への旅」第2日

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昨晩はぐったりの皆様でしたが、今朝は元気一倍。食欲もモリモリです。素敵なお部屋と素晴らしい朝食に大満足。でも、冷房が効き過ぎて寒かったという方々がいらして残念でした。そんな時には添乗員に一言おっしゃってね。




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今朝、真っ直ぐ宜蘭に行き、そこから五峰旗聖母聖地に歩いて行きました。

ここは、仏教の人達を助けられた聖母ご出現の聖地です。

残念ながらごミサはできませんでしたが、マリア様の広い心を感じ、温かい気持ちになって下山しました。




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下山途中、遠くに五峰旗の滝が見えます。ルルドなどマリア様とお水は深い関係があるのですね。




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急行列車で宜蘭から花蓮まで約1時間です。これは、車内で頂いた鳥肉の駅弁です。ちょっと甘めの味付けでした。




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花蓮の聖パウロカトリック教会に急遽お願いして、こちらで御ミサをさせて頂きました。

とてもご親切に、温かく迎えて下さり感謝です。

神父様のお説教の要旨です。

「今朝、私たちが計画していたことが実現しませんでした。その後、お導きがあって花蓮でごミサが挙げられるようになりました。イエスは、腰に帯を締め、灯火を灯していなさいとおっしゃいます。日々、神様に呼ばれる覚悟を持って生きること。台風で亡くなられた方々も、前日には翌日が人生の終わりになるとは考えてもいなかったことでしょう。

私たちも日常生活の小さな心配事に追われて、神に呼ばれる時の準備ができていません。年を取ってくると、呼ばれる日が突然くるのではという考えが出てきます。

今朝の五峰旗聖母聖地では、イエス様のことも知らないし、マリア様とも関わりのない人達が、マリアに助けられました。全ての人々の母でいらっしゃるマリア様は、山の中で遭難した人々や、危険な所にいる人々を皆、全て守って下さいます。

聖母は、木の所にいました。イエスは木の上で亡くなられました。

私も10月に生まれたので、マリアという名前が付けられています。戦争中、爆弾が投下された時から、自分の召命について真剣に考え始めました。母は亡くなる時に、この子を神に捧げたいとおっしゃったそうです。

マリアは、宗教に関係なく皆のお母さんです。司祭になって、尊敬する神父様からパキスタンに行くようにと言われました。考えている間に、すでに候補者が決まってしまったために、次の候補地日本に来るようになりました。毎日の生活の中でマリア様は、いろいろな時に導いて下さいます」(文責:小池俊子)



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花蓮教会の皆様、突然のお願いにもかかわらず、大歓迎して下さりありがとうございました。

花蓮から太魯閣に向かいます。神父様「北海道よりすごいな〜」と感動なさっていました。

台湾の原住民・タロコ族の婦人は、獣道のような峡谷の道を2時間半かけてこちらに絵葉書を売りに来ているとのこと。皆さま、優しさが溢れて、買っていらっしゃいました。




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太魯閣のホテルでの夕食です。沢山、次から次へと出てくるのですが、皆さま、結構豪快に召し上がっていらっしゃいます。

ルカ神父様と行く「信仰と観光の台湾への旅」第1日

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朝早く出発なさり、やっと台北に到着しました。

台湾は、宗教に対しても寛容な国なのでしょうか。一つの建物の中に、仏教、道教儒教が混在しているのです。

子供が欲しいひと、赤ちゃんが生まれたので感謝する人、商売繁盛を願う人などで建物の中はいっぱいです。



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巡礼最初のごミサは台北のカテドラル「無原罪の御宿り大聖堂」で捧げられました。

ルカ神父様のお説教の要旨です。

「今日の最初の訪問地・龍山寺では、多くの人々が財産のことを心配して拝みにきていました。台風で全てを失った人々が何人もいます。お寺で祈っていた人が!は、お金持ちになるため、また、子供を授かるためなど。財産を一瞬で無くした人に何が残っているでしょうか?ものでは買えない友達とか、助けてくれる人です。

アッシジ聖フランシスコは金持ちの息子であったのに、貧しくなられたイエスに従いました。大工の子であったイエスは、人の重荷を背負って下さいます。

本当の財産とは、神に頼ること、神様にお返しをすること。持っていない人たちはにものをあげること。私の恩人の司祭は、中国に行きたかったが、行けずに台湾で亡くなりました。その司祭から私は、宣教師になる召命を、頂きました。」(文責:小池俊子)




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建国の父・孫文の記念館で衛兵の交代式を見ました。



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101の建物にこれから登ります。足ではなくエレベーターですが。



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今日は神父様のお誕生日です。小籠包の後に、バースデーケーキを頂きました。日本の宣教師として88歳までも働き続けて下さる神父さま、本当にありがとうございます。そして、長生きなさって下さい。



「萩・津和野巡礼」第4日

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1日の初めは、津和野教会でのごミサです。

イスラエルの民は紀元前586年バビロニア捕囚により、土地を失い、外国での奴隷生活を強いら れます。その後ペルシャ王により故郷に戻ってきますが、自分たちが神の律法に忠実でなかったことを深く反省します。神様の教えに従って生きなければ、 自分たちのうちに命がない ことを民族として体験する 非常に重要なバビロン捕囚です。

似たようなことは放蕩息子の弟の話しにも出てきます。人間というのは宗教云々や、時代、場所を超えて一つの共通項として生きなければ幸せにはなりません。自分勝手に生きつづければ、世間的に言う、痛い目にあうと言うことなのだと思います。しかし、大事なことは、それに気づいてやり直すことです。しかし、嘆いているだけの時間はもったいないことです。その意味で、今日の第1朗読では、神殿を再建して、その日を新たに出発の日として祝っているイスラエルの民の姿があります。

これは福音にもつながっていて、私たちは、巡礼の旅を終えて日常に帰っていきますが、それにもぴったり合うと思います。

福音にも72人の弟子の派遣があります。これは、ルカ福音のみに書かれています。イスラエルの12部族×6は、イスラエルの12部族から全世界に派遣されていく弟子と言うように考えると、72人は、私たち一人一人です。真理を携えて宣言していく宣教者にも例えられています。

神様から使命と、重要な責任と、神様の思いの詰まった宣教の使命を頂いていることになります。

こういった聖書の箇所を読みますと、ある意味、自分に関係のない話として、私には自分の信仰生活を守るのが精一杯で、人に神様のことを伝えるなんてと言う、あまり良くない視点があります。けれど、私たちの人生そのものが派遣であると考えること、結局、私たちは神のもとに帰っていく。神からこの世に遣わされているのですから、派遣されているものは、派遣している方のことを良く知らないと伝えられないということ、ここが一番大きなことではないかと思います。

私たちが、自分に宣教などとは無理だと思うのは、自分の視点でしか物事を見ていないことになります。私の家庭の状況で、私の職場の状況で、私の地域社会との関係でどうやって神様のことを伝えるか。宗教を軽視する風潮があり、特にキリスト教社会ではない

場にあって宣教とは当然、簡単なことではありません。しかし、イエス・キリストが求めておられるのは、そう言う、1人でも多くの人をキリストに導いていくということでしょうか。

実は、聖書をよんでいますとそう言うことではないということです。教えについても、70倍まで許しなさいとか、敵のために祈りなさいとか、敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい、右の頬を打たれたら左の頬を出しなさいとは、指示通りに理解するのではなく、実質を捕らえた解釈をしなければ、そのような解釈をして初めて、私のこの世での生活が実りあるものとなります。私たちは人々をイエス・キリストにつなげること。イエス・キリストがその人を回心して下さること。その準備をすること。その責任は、私たちの信仰生活だったり、完成のある生活だったり、祈りであったり、人間ですから、ある程度矛盾はありますが、矛盾を克服するような生き方、遣わされているということ。収穫は多いが働き手が少ない。収穫の主に働き手を送って下さるように願いなさい。この言葉は、マタイとルカにあります。しかし面白いですね。イエス様が飼い主のいない羊のように、弱りかけている群れを見て、しかし、ルカ福音書のイエス様は宣教とかき合わせて、宣教の直前に祈ってから行くようにと言っています。ここでは、自分が宣教に遣わされる前に、しっかりとした、祈りに基づいたものでなければ宣教師としての仕事はできない。次に、私はあなた方を狼の中に遣わす。簡単ではないということはイエス様がおっしゃっていたことです。困難さを感じないことが私たちにとってはおかしなことになります。狼の中に子羊を送り込む、この比喩がさすことは、当然当時の人々が遊牧をする人が多いわけですから、狼の中に入ったらどうなるのかわかったわけです。

イエス・キリストはものを持たないようにと言います。イエス・キリストが求めたのは神への絶対的な信頼です。もので宣教するなら、神が宣教の主であることを忘れてしまいます。挨拶をするなというのは人間関係のことで、どんな人にでもなく、先ず、神に全幅の信頼を置きなさいというメッセージがあると思います。

そして、真ん中にあるのは平和です。このことも非常に大切です。私はそこに平和をもたらすものでしょうか。あるいは、平和を壊すものでしょうか。自分の感情に振り回されて中傷、非難、などで平和を壊していくのでしょうか。職場で、家庭で何度も反省すべきことです。教皇様も陰口、悪口、非難がいかに教会を破壊しているものであるかをおっしゃっています。

最後に平和の使者として、そこで報酬をもらうのは当然だ、宣教のみのりがなくても、一定の期間、神に信頼してそこに留まりましょう。最後に来るのが足の埃を払うことです。これは、聖書の解釈で気をつけなければいけないことですが、宣教者はユダヤ教でもキリスト教でもとても重宝がられました。神のことを伝える人ですからそれなりの価値があると言う時代背景があります。足の埃を払うというのは、ユダヤ人が異教徒の街を歩いた時にするように、チリを払う、それをしてからでないと家に帰れない。いろいろないみがあるが、派遣されるものにはそれなりに責任があるということが非常に大切なことです。信じなかったことに対して、冷たく裁きの言葉を残して去るのではなく、宣教者としての責任を表しています。

宣教というのは、遣わされた方の思いを知らずにしてできないことです。若い人が自分の育った家を出て行き、仕事で一生懸命に働きます。親はそれを一生懸命に応援しています。親は自分を待っていてくれて、自分の成功も、失敗も全て含めて喜んでくれる。ある意味、これと同じで神はいつも派遣した私たちのことを待っていてくれます。神は決して、私たちが偉い人になるなどということは望んでいません。むしろ派遣されたところで神を愛し、人を愛して、それが一番の神の喜びではないでしょうか。神の思いを知らなければ、どうしても視点は自分にもどってきます。私にはできないと思う時、神が私たちを忍耐と愛と許しでいつも見ていてくれます。この巡礼の最後にあたって、必要な恵みを神様に願いましょう。」(文責:小池俊子)





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津和野教会の主任神父様が、津和野の殉教についてお話しして下さいました。





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信仰のために苦しんで「証し」して下さった方々の聖地「乙女峠」です。

浦上のキリシタンの指導的な人は、浄土宗の光琳寺に収容されました。ここに「マリア聖堂」が建てられています。

三尺牢は転ばすための拷問手段でした。聖母マリアへの信心が篤かった森安太郎に夜中、青い着物を着て、青い布を被った、サンタマリア様に似た方がいらして話して下さったので、少しも寂しくありませんでしたと言い、永遠の安息に入りました。





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マリア聖堂の中です。

ステンド・グラスにはもりちゃんの話も出ています。

美味しいお菓子を見せた役人が「食べてもいいが、その代わり、キリストは嫌いだと言いなさい」と言うと、もりちゃんは「お菓子をもらえばパライソへは行けない。パライソへ行けば、お菓子でもなんでもあります」と答えて、永遠のしあわせを選びました。





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信仰のために苦しんで「証し」して下さった方々の聖地「乙女峠」です。

浦上のキリシタンの指導的な人は、浄土宗の光琳寺に収容されました。ここに「マリア聖堂」が建てられています。

三尺牢は転ばすための拷問手段でした。聖母マリアへの信心が篤かった森安太郎に夜中、青い着物を着て、青い布を被った、サンタマリア様に似た方がいらして話して下さったので、少しも寂しくありませんでしたと言い、永遠の安息に入りました。




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今日は天気予報は雨だったのですが、神様の慈しみによって、奇跡的に晴れました。

神父様は、ここ殉教の場で、私たちに巡礼最後のお話をして下さいました。

「ルカ福音書14章 私のもとに来ても、自分の父や母、妻や子、兄弟や姉妹、さらに自分の命までも憎まないものは、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を担って、わたしの後についてくる者でなければ、わたしの弟子となることはできない。

あなた方が塔を建てようと思う時、まず座って、それを造り上げるだけの経費があるかどうかを計算しないだろうか。そうしないで、土台を据えただけで完成できないことになれば、それを見るものはみなあざ笑って、あの人は建て始めたが、完成することができなかったと言うだろう。

また、どんな王でも他の王と戦いを交える際には、まず座って、2万の兵を率いて進撃してくる敵に、1万の兵で対抗できるかどうかを考えないだろうか。もしできないと分かれば、敵の王がまだ遠方にいる間に、使者を遣わして和を講じるであろう。それと同じように、一切の持ち物を捨てるものでなけらば、あなた方は誰も、わたしの弟子となることはできない。

この聖書の箇所は9月8日の福音です。このように家族を捨てて、信仰を守った人たちのことを、この場で考えたらよく分かることだと思います。

まず、その他の多くのキリストの言葉のうちに、非常に厳しく、実践不可能に感じられる言葉があります。たとえば、家族と自分の命を憎まなければ弟子にはなれない。どういうことなのか。わたしは平和ではなく劔をもたらすために来た。

60年代キリスト教の迫害時代がありました。その時に親を捨てて、キリストを選ぶということがあり得た。もう一つはギリシャ語の憎むというのは、一方よりも他方を少なく愛するという意味があった。これが分からないと、自分の命を憎むとか家族を憎むの意味が分からなくなります。しかし。ユダヤ教では、家族を憎むということには意味がない。十戒の、第4戒に父母を敬えというのがありますから、ユダヤ人にとって家族を大切にしなくても良いのかというのは議論にもなりません。

ここでみな様に考えて頂きたいことですが、迫害のない今の社会にあって、自分の周囲の人たちを横に置いて、イエスキリストを選ぶということが自分の救いになるのかということ。

大分で現役で事故で亡くなられた方の葬儀ミサの準備をしている時、次のことを話しました。イエスを家族よりも何よりも選ばなければならないのは死の時、死ぬ時にいくら愛する家族がいても、いくらその家族を愛していても、わたしを救ってくれるのは家族ではない。積み上げて来た功績や、仕事、人に捧げて来たことではない。一人で生まれて、一人で死んでいく私たちには、頼るべき神が必要なのです。ですから信仰の道の一つのゴールは、存在を委ねられる存在者としての神がいることを信じられること、イエス・キリストにたよらなけれはならない。あるいは、頼らざるを得ないということ。

26聖殉教者の中に10代の青年と子供が5人います。その中のトマス小崎が、死の1ヶ月前にお母さんに残した手紙があります。「愛する母上、わたしとお父さんは間も無く神様のところに行きますから、どうぞ心配しないで下さい。喜びのうちに旅立っていきます。お母さんはむしろ自分の信仰を守ること、残された弟2人の信仰を守ること、そして何より自分の罪を悔いること、これを気をつけて下さい。これがあれば、救いの門は開かれます。14歳の少年がイエスを選ばなければならなかったからではなく、むしろ、その人が招いてくれるところに行くんだと肯定的に死を選んでいます。

そこで死を軸に肯定的にイエスを選ぶこと。肯定的、否定的が混ざって、3対7になったり、4対6になったりすることがあるでしょう。大切なのは、一番大事な人や大事なことは置いてでもイエスを選ぶこと。イエスは一方をゴミ箱に捨てて、一方を選びなさいと言っているのではありません。イエス様の教えは、二者が一つになることです。ただし、迫害の時などは、一方を大事にしてそちらを選ぶこと。小さなことに忠実でない人は大きなことにも忠実ではない。この世のことをきちんと生きなければ、永遠の命に繋がらない。一番大事なのは永遠の命です。この世の大事なことを横に置いてでも神を選ぶという体験を、日常の生活において、特に些細なことでもそのように生きること。日常のことに真剣になる以上に永遠の命を目標にすること。

神様を選ぶことが、自分の喜びになる。この殉教者は、最後まで喜びのうちに神様を選んでいった人たちです。信仰のために喜びを持って拷問にも耐えた方々の生きた場所です。」(文責:小池俊子)





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信仰のために苦しんで「証し」して下さった方々の聖地「乙女峠」です。

浦上のキリシタンの指導的な人は、浄土宗の光琳寺に収容されました。ここに「マリア聖堂」が建てられています。

三尺牢は転ばすための拷問手段でした。聖母マリアへの信心が篤かった森安太郎に夜中、青い着物を着て、青い布を被った、サンタマリア様に似た方がいらして話して下さったので、少しも寂しくありませんでしたと言い、永遠の安息に入りました。

「萩・津和野巡礼」第3日

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萩教会の主任・恩地神父様が、萩教会の歴史、萩の福者メルキオール熊谷元直、パリ外国宣教会のビリオン神父様についてなど、ごミサの前にお話しをして下さいました。





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ごミサはカトリック萩教会で捧げられました。

「今日は守護の天使の記念日になっています。カトリック教会の教義に、全ての人にそれぞれ守護の天使が遣わされている。 神がそうして下さるように、守護の天使も私たちの自由意志を尊重してくれます。ですから私たちも自由意志に基づいて選択することができますが、神から遣わされている天使は、私たちを善である神の子、良い選択をして神の子として歩いて行くよう導きます。」(文責:小池俊子)






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恩地神父様のご案内で「殉教者記念公園」に行きました。萩の福者メルキオール・熊谷元直の記念碑もあります。浦上四番崩れで萩に流された方々のご遺骨は、ビリオン神父様の労苦によってここに集まられました。







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こちらは上級武士の武家屋敷です。毛利輝元や熊谷元直はこちらに住んでいたものと思われます。






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萩焼き工房です。丹精して一つ一つ作られる焼き物に、作者の魂が込められます。




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この巡礼で毎日フグを頂いています。昼食のフグの唐揚げは抜群でした。




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萩の町の中心部、アーケード商店街の手前に禁教令の高札が置かれたところがあります。







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紫福(しぶき)には、このようにキリシタン墓があります。中には聖母の像とか絵などが入っていて、神道でも、仏教でもこのようなお墓はないとのことです。 






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至福の村が紫福に変わっていても、浦上の信徒が生きた信仰の証しは変わることがありません。






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夕食の時に自己紹介をいたしました。

本音で語り、皆様との距離がとても短くなりました。

「萩・津和野巡礼」第2日

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聖フランシスコ・ザビエルは、みやこの退廃ぶりにがっかりし、ここ山口で大内氏の許可を得て宣教活動に励んだ。短期間に多くの人々が改心し、その中には、後に宣教師として大活躍した、琵琶法師ロレンソ了斎もいた。




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ごミサは、「フランシスコ・ザビエル記念聖堂」で捧げられました。

「昨日の福音で、弟子たちが誰が1番か話し合っていた所、そして、小さな子供のようにならなければ天の国には入れない、そして最後にはイエスの名によって悪霊を追い出していたが、それをやめさせようとしている。この一連の出来事に表れる弟子たちの不理解が、特に十字架に対する不理解とイエスの福音の本質を理解できない こと。歓迎されないからとの理由で天から火を降らせましょうかという弟子たち。そもそも天から火を降らせるのは神です。そこから力を見出すならよいが、ここからイエス・キリストは十字架に向かいます。1つの方向性が決めら、十字架にますます近づいていきます。私たちにも小さな十字架、大きな十字架がいろいろあります。いずれにしても、それを選んで向かっていかなければなりません。イエス・キリストがなさったように、覚悟を決めて、私たちもその十字架を背負わなければなりません。多くの人は十字架を担うことは大変なことと思っていますが、十字架を担うことによって、それが救いになります。あなたの魂は平和になります。救いの力を十字架は持っています。インマヌエル、神はあなたと共におられる。今日祝日のリジユーの聖テレジアに取り次ぎを願いましょう。」

(文責:小池俊子)




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教会の方が説明をして下さいました。



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地下の資料館には、ザビエルに関する貴重な資料が展示されています。




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教会の中庭では、幼稚園の皆様が来週の運動会の練習をしていました。




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フランシスコ・ザビエル記念公園です。大道寺跡に造られました。大内氏から頂いた廃寺がザビエルとその同士の家でした。




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昼食はこのような感じです。たくさんですね。



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瑠璃光寺五重塔は、美しく聳えています。ガイドさんの力の入った説明に皆様耳を傾けています。




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吉田松陰を祀る松陰神社です。キリスト教では、たとえどんなに偉い方でも、亡くなって神になることはあり得ません。

松陰は、死刑に向かう前に次のように詠みました。

親思う こころにまさる 親ごころ

きょうの音ずれ 何ときくらん



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小さな和室に幽閉された松陰は、その部屋で正座して学問に励んだ。

やがて多くの若者や子供たちが松陰から学ぶために集まってきた。



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10月1日、今日は「幼きイエス聖テレジア」の記念日です。

車中、神父様が聖テレジアについてお話しをして下さいました。

聖テレジアは教会博士であり、宣教の守護の聖人です。どうして宣教師の守護の聖人なのか考えてみなければならないと思います。

生活自体は限られた観想修道院の中でした。しかし誰よりも強い宣教の熱意、非常に強い熱意を持って、全ての人が神を信じるようにと願っていました。有名な話に神を否定していた死刑囚の回心があります。彼はリジユーの聖テレジアの取り次ぎによって罪を認め、死刑執行の前に改心しています。

新しく洗礼を受ける人達の多くが、この聖人のお名前を選んでいます。それは、彼女の徹底した神様への信頼ということからです。本など読んでいますと、甘えとかべったり頼って自立していないという風にみられますが、歴代の教皇様もおっしゃっていらっしゃるように、このように文明が発展した世界にある、自分ができることに強く執着している面のある世界であっても、人間にはどんな時代になってもできないこと、勝てない病気とか、人間が思い通りにならないことが沢山あります。そのような中でリジユーの聖テレジアは、神に頼って生きるということを徹底的に生きた人です。そのためには、彼女が教えている、子供のようになることそれがとても大切です。全能の神がいて、その愛の結晶として私達は命を頂いて、大人になっても神の子です。神様に頼ることがなければ、私達は自分の力だけで生きようとしてしまいます。それには行き詰まりがあって、私達信仰を頂いたものとして、神に頼らない生き方は悪いことです。神が示して下さった愛と、送って下さった多くの恵みとか助けとかをベースにして、感謝しながら、今からの自分の生活にも助けと恵みがあるということを確信して、それに信頼して生きることが信仰生活ではないかと思います。

リジユーの聖テレジアの著書を読むとき、自分の一番信頼している、親への信頼のようなものを神において行く、そのような道なのではないかと思います。それは、完徳に至る道だと教皇様方が説明してきました。

もう1つは殉教のことです。いったん転んだけどまた帰ってきた。ここにキリスト教の真髄があると思います。良いこと、素晴らしいことというのは、失敗しないことではなく、失敗した後に、それを認めて許しを願うこと、そしてもう一回やり直すこと。こちらの方が人生においてとても大切で、とても美しくて、人間の崇高さは失敗しないことにはないのです。そういう人がいたら人間味はないし、失敗しない人生というのはあり得ないし、失敗のない人間というのはある意味ロボットみたいで、そういうところに人間の崇高さはないと思います。崇高さとは、間違っても認めて、謝って、やり直すこと。同時にそれは、そういう人間を受け入れること。それを許しと言います。ですから私達はまず自分の失敗、間違い、どんな小さな失敗でも、大きな失敗でも、大切なのは失敗したかしなかったかではなく、そこからまたやり直すこと、こっちの方が百倍、二百倍大事です。イエス・キリストが十字架の道行で三回倒れられたということは、そういう意味だったと思います。模範が詰まっていたということです。自分の足りない点、弱い点を認めて出発できる、それが自分の本当の強さとするなら、それは人に対する愛と優しさという強さの曲面に変わります。だから、本当の意味で自分が弱いもの、小さいもの、失敗してもそれを認めてやり直せる人は、同じように、人に対しても与え、見せてあげなければならないと思います。」(文責:小池俊子)



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お夕食の時にリジュー聖テレジアの霊名を持っている方、傘寿、喜寿、お誕生日と皆様のお祝いがありました。萩教会の主任・恩地神父様もいらして下さり、とても賑やかで楽しいひと時でした。

「萩・津和野巡礼」第1日

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羽田発で、広島に到着しました。空港から広島駅に向かい3人が合流しました。真っ直ぐ昼食会場です。




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巡礼最初の訪問は、「世界平和記念聖堂」です。ボランティアの方が教会について説明して下さいました。

1945年8月6日、世界初の原爆投下により広島は焼け野原になってしまいました。

当時、この惨劇に巻き込まれたラサール神父は、バチカン教皇ピオ12世に話し、全世界の人々の心を平和への切望に揺れ動かします。

この「世界平和記念聖堂」は、全世界の平和を渇望する方々からの援助で、1954年8月6日に完成、献堂されました。




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ここ広島のカテドラルの祭壇脇には、ファチマでの聖母のご出現100周年を記念して日本の教会を巡り、今はここ広島のカテドラルに安置されている聖母像があります。




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平和公園」をガイドさんの説明を聞きながら、重い気持ちで歩きました。



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巡礼最初の御ミサは、「世界平和記念聖堂」で捧げられました。

「今日の福音で、まず弟子たちが、誰が1番偉いかと議論しています。この議論、私たちの現実の生活においては、多くの場合私の方が偉いという論点ではなくて、自分が挨拶されなかったとか、お礼を言われなかったとか、また、自分の嫌いな人を馬鹿にしたり、そういうところに私たち自身の問題があります。私たちは決して自分が1番偉いとかいいませんが、心のどこかで人を蔑んだり、馬鹿にしたりすることがあります。自分が大切にされなかった時の不平、不満は、自分が何かしらのものであるとの思いに結びついているのだと思います。このような病に自分自身が気づいていなければ、自分を不幸にします。どれだけ多くの人が自分は大切にされなかったと思っていて、また、自分のこれだけの努力を認められなかったと、思っていて、これは実は私が1番という傲慢からきているのです。その点、イエス・キリストが教えられたことには深みがあります。今日、イエス様が前に立たせたのは子供です。子供のように小さく、謙遜になることを重要視し、また、ルカは、子供という小さな存在を受け入れることを書いています。このように小さな人たちを受け入れることが私たちの1つの重要なポイントになります。

ルカは十字架の予告をします。しかし弟子たちにはそれが分からなかった。けれども怖くて尋ねられなかった。私たちが自分の人生の十字架を十字架として見ないならば、この世の価値観だけで生きて行く人は、結局、自分は偉いと。私たちにとって十字架を神の御旨だと思い、私の魂にとって1番大切なことは、理性を通しては分からない十字架というものの裏にある。それを謙遜のうちに神の前に謙って見ること、受け入れること。このようなことが私たちを解放して、平和にしていきます。この巡礼の旅を通して私たちの魂が必要としている恵みを神が豊かに与えて下さいますように願いましょう。」(文責:小池俊子)




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大勢の小学生、また諸外国からの方々も見えました。

平和を願う心は万国共通です。 

「戦争は人間の仕業です。

戦争は、人間の生命の破壊です。

戦争は死です。」

ヨハネ・パウロ2世



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ホテルでの夕食です。和気あいあいと新しい友達も増えていきます。