グノーの会 inイタリア4日目
夕方の演奏会前まで、市内観光です。
今朝は晴れたものの、空気の冷たい寒い一日になりそうです。
まずはサンタンジェロ城へ。
雲行きがあやしくなり、先程までの青空から一転雨が降り始めました。
今年の1月からローマ市内はバスの乗り入れが大変厳しくなりました。
そのため目的地までバスを降りて徒歩での移動が多くなります。
ラテラノ大聖堂の内部。
左ほ天国の鍵をもつパウロと、ペトロの像。など
午後6時半から、ジローラモ教会でグノーの会演奏会です。
聖堂いっぱいに人が入り、グノーの会の歌声を静かに聴いていました。
8時半から打上げパーティ。
こちらでも気持ちよさそうに皆で歌って飲んで食べて、楽しい時間をすごしました。
気がつけばメインのお肉をいただいたのが夜中12時近く。
デザートは日にちを越えてからと言う、ありえない時間帯での食事でした。
この旅行中に3人がお誕生日ということで、ハッピーバースデーを歌ってお祝いしました。
グノーの会inイタリア3日目
今日は聖フランシスコ大聖堂でのミサで歌います。
たくさんの人が集まるミサの中、グノーの会の歌声が響きます。
大聖堂のミサで。
大聖堂のミサで。その2
大聖堂での歌終了後、外で記念撮影です。
ローマへ向かう最後、サンタ マリア デリ アンジェリへ行きました。
ポルチウンコラと言う小さな礼拝堂があった場所に、16世紀になってそれを守るために建てられた教会です。
大聖堂のミサで歌い終わってから、少し遅めの昼食へ向かいます。
「La Stalla」という地元で人気のお店です。ラザニアのほか、炭火で豪快に焼いたポークソーセージ、スペラリブ、チキンやラムのお肉は食べごたえがありました!
これでアッシジとはお別れです。
グノーの会 inイタリア1日目
成田を9時15分出発。
インチョン経由でローマに20時に到着。明日に備えて、ゆっくり休みます。
五島列島巡礼第4日目
今日は五島から長崎への移動日です。
ガイドのOさん所属の「中の浦教会」が海面に美しく映っていました。
前田万葉枢機卿様、島本大司教様などの出身教会「仲知教会」です。
主任の本田神父様がご親切に迎えて下さいました。
長崎での昼食は中華です。コリコリの美味しいお刺身は、昨日で終わり!
巡礼最後のごミサは西坂の丘、日本26聖殉教者の聖フェリッペ記念聖堂で捧げられました。
「今日の福音では、特にマルコ福音書では珍しく立法学者の1人がイエスからお褒めの言葉を頂く場面となっています。福音書では律法学者はイエスの非難の対象になっており、その偽善的な振る舞い、外面と内面の不一致、そういったところがイエスに厳しく批判されています。けれども今日の律法学者は、イエスから褒められています。何が褒められたのかそのことを考える事は、私たちにとっても非常に支えとなります。なによりもまずイエスの示した最も大切な2つの掟。これは神を愛することと人を愛することですが、2つが別々の教えと言うよりは、神を愛する事は人を愛することであり、人を愛することなくして神を愛することはできない。この愛の実践と言う教えを素直に肯定している点です。よく考えてみますと、私たちの生活には人間的な言い訳や、また曲解、そういったものが非常に多くなる場面があります。しかしよく考えてみると大事な事はいくつかで、神の掟、神の教えを素直に受け入れること。もちろんそれを機械的にするのではあまり意味がないと思いますが、自分の納得とか理解とか共感とかに振り回されていて私たちの知性や理性を超えるところにある、つまり私たち自身が完全には理解することのできない神の知恵、神の意向に対して私たちはやたらと蘊蓄を述べたがあるというか、自分の範囲でしかその教えを受け入れない部分を持っています。よく考えてみると、神の言葉も神が教会に残した神の教えと、それを私たち人間がこの限りある知性と理性で理解尽くせる事はありえないことです。盲目的な理解とか共感を無視して、ただ掟を守れば良いと言うことではなくて、私たちが余計な疑問であったり、自分の人間的な考え、経験、価値観を横に置いて素直に神の教えを福音として受け入れる姿勢は、謙遜なものの神の前でのあり方だと思います。そのような所は神を愛し、人を愛するといった律法学者の対応、これが一番大事だといったこと、それを肯定したこと、これがイエスから褒められた理由の一つです。この心に抱く想いを実践していくことが大事ですが、私たちが頂いた恵みを人間的な観点からだけではなく、ストレートに感謝していただくことが大事なことだと思います。シンプルな生き方が必要になってくるのは、例えば、今日、私たちは帰りの船の中で1つの衝撃的なことを目の当たりにしました。結局、人間と言うものは自分の考え、価値観に執着していても、その始まりと終わりを決定する権限もなければ、いただいたものを感謝して大切に生きること、それを捧げて生きることに重要な意味があるように思います。神が与えて下さった命と時間の中で、私たちが何をすべきか、何をしなければいけないかと言う事は、私たちの知恵を超えるところで神が示してくださること。それを必ずしも理解していなくても、理解できない部分があっても、それを大切にいただいて受け入れていく生き方。私たちの知性や理解を超えたところで真理に私たちを引っ張っていくことです。私たちにとって、神が招いてくださるその時まで与えられたものに感謝して生きることができるように、このミサの中で願いたいと思います。」
京都から冬の寒さの中、裸足で約800キロも歩かされた24名のキリシタンに、お世話をしていた2名が自発的に加わり、26名は、西坂の丘で1597年2月5日に十字架の刑で殉教しました。
ただイエス・キリストへの愛のため、最後の瞬間まで信仰を生き続けた26名の殉教者。命をかけて生きる覚悟が私にはできているでしょうか?
巡礼最後の訪問が終わりました。グループは長崎空港へ。またまた長崎のお土産を買い込まれ、無事に皆様、羽田空港に到着しました。
最高の天気に恵まれ、神様の愛が一杯に感じられた、お恵み一杯の巡礼ができました。神様に、マリア様に、そして神父様に心から感謝!本当にありがとうございました。
「五島巡礼の旅」第3日
今日、最初の教会は、ガイドOさんの所属、彼女がこよなく愛する「中の浦教会」です。
真っ赤な椿の花、中庭の聖母像など、信徒の皆様の愛が溢れています。
信徒のいない週日の教会でも、信徒の姿がいたる所に残されているような、生きた教会が感じられます。
「大曽教会」 へは80段の階段を登って行きます。ふーふー言いながら、到着すると、そこには「重荷を負うものは、私のもとに来なさい。」とイエス様が腕を拡げて迎えて下さいます。
世界遺産「頭が島教会」にはシャトルバスを使って予約された時間に入ります。石造りの教会には今日も大勢の観光客も訪れていました。神様が導いて下さいますように。
ごミサは「青砂が浦教会」で捧げられました。
世界遺産「頭が島教会」にはシャトルバスを使って予約された時間に入ります。石造りの教会には今日も大勢の観光客も訪れていました。神様が導いて下さいますように。
大橋を通って、世界遺産「頭が島教会」へ。地元の石を切り出して、鉄川与助が施行した素敵な教会です。
縄文式時代からの人骨も出ているとのお墓です。大勢の信徒が住み、石を切り出して大切な自分たちの教会を造りました。けれども多くの信徒はその後、生活ができなくなり、頭が島を去らなければならなかったそうです。
バスの中での神父様のお話し。是非、読んで下さいね。
「今日の福音は教皇フランシスコもいろいろなところで言及されています。そしてその指摘のポイントは教会内外でどれほどの内輪もめがあるか、そしてそのことが教会内外にどれほど大きな損害をもたらしているかを認識するように強く警告する言葉です。「福音の喜び」と言う使徒的勧告があります。その99番に教皇様が次のように書いています。「私たちの間で争い、揉め事がないように神の民において、そしてその様々な共同体において、どれほどの内輪もめがあるでしょう。住んでいる場所、職場、それらにおいて数えられる内輪もめは、その嫉妬などによるもの、それはキリスト教徒の間にもたくさんあります。この世俗の考え方から来る争いは、数人のキリスト者達を他のキリスト者たちと向かいあわせ、権力を探したり、人の上に立ったり、相手を支配したり、また経済的安定を理由に、そのようなことをすることにつながっています。それに加えて、教会内でも多少支配しようとする、人の上に立とうとする欲は、とどまるところがありません。実際この世界は暴力と争いで満たされているのであり、そして世界は、今、浸透しつつある暴力をふるっている個人主義によって大きな傷を受けています。結局、人は権力争いや嫉妬から傷つけ合い、人の上に立とうとすること、自分が賞賛されること、自分の利益を守る事を理由に争い合っているのです。それは、どんな国でも、どんな場所でも、またキリスト教教会内外においても強く存在していることです。」このような教皇様の言葉があります。これに加えて、もっとも新しい「喜びに喜べ」という使徒的勧告が翻訳されています。その71番にも似たようなことが書かれています。これは柔和について、柔和な生き方についてですが、「至るところに争いがあり、どこもかしこも傷だらけで、考え方、風習、さらに話し方や服装でも他者をランク付けすることをやめない。柔和な人々は幸いと言うのは衝撃的な言葉です。結局、世界は他者よりも上にある事は権利だと誰もが信じている高慢と虚栄の国です。しかし不可能に思われたとしてもイエスは別の生き方を示します。それが柔和です。それはご自分の弟子たちに対して実践されたことであり、ロバに乗って最後に入場されたことによってイエス自身が実践されたことです。イエスは言われました。私は柔和で謙遜なものであるから私に学びなさい。そうすればあなた方は安らぎを得られると。周りの人に対してビリビリしていらいらと尊大であれば終いにはヘトヘトで疲れきってしまうでしょう。けれども他者の限界や欠点を自分のほうがまともだとの思いを抱くことなく優しく柔和な心で受け止めるなら彼らに手を差し伸べることができ、無益な不平不満にエネルギーを使わなくなるでしょう。リジューの聖テレジアは言っています。真の愛徳とは、他人の欠点を忍耐し、彼らの弱さを驚かずにいると言うことです。使徒たちも同じように指摘しています。パウロは聖霊の結実として柔和を取り上げ、兄弟姉妹が何らかの罪に陥ったなら、その人を正しい道に立ち帰らせるよう、しかも柔和な心でそうすることを勧告します。ペトロも信仰や信念を弁明する時でさえ柔和な心で、穏やかに行わなければいけないといい、敵対者、迫害者に対しても、優しく接しなければならないと教えています。神の言葉のこの要求を守れなかったがために、教会において私たちはどれほど大きな過ちを重ねてきたでしょうか。聖書では信仰を持っている人と貧しい人は同じ言葉で表されることがあります。つまり、貧しい人と柔和な人は共通していると言う概念です。ある人はこう反論します。あまりに物腰柔らかなら、人から頭が弱いとか、お人好しの馬鹿だとか、気が弱いとか思われてしまう。そういうこともあるでしょうが、それはそれでその人にはそう言わせておきましょう。優しく接する事は常に良いことで、それによって私たちの大きな望みは叶うはずです。柔和な人は地を受け継ぐ。すなわち彼らはその生涯の中で神の約束が果たされるのを目にするのです。柔和な人はいかなる状況にあろうともゆるぎない平和を得ているからです。謙虚に、柔和に人に応じ、そのように生きること、それが聖なる人であると言うことです。 今日のこの福音、サタンの内輪もめに関するイエスの話しは、私たちが単に争いのない、幼稚園で教えられることの、すべての人と仲良くしましょうという教えを、教会内外で生きることの重要性を説いています。大人にはすべての人と仲良くしない理由が五万とあります。しかし、相手の出方で自分の出方を決めているようでは、すべての人に足りない点がありますから、この世界は良くなることはありません。むしろ私たちはこういった、相手の悪や罪、欠点や足りない点を覆えるだけの愛と慈しみ、それは具体的には、私たちの謙遜と柔和ですが、それをもってして初めてイエス・キリストの教えを生きることができます。教皇様が厳しく批判されるのは、教会内外における中傷、非難、陰口や争い、そういったところから、どれほど大きなダメージを教会内外に与えているかを認識すること。そして神の民としての教会を作り上げていくこと。今日一日が、そういう教会共同体の国に向かう1日でありますよう祈りましょう。」
宮大工の鉄川与助がドロ神父様の教えにより始めて作った「冷水教会」です。後ろを振り向くと海が見えています。
今日、最後の訪問は「米山教会」です。こちらは、白浜司教様ご出身の教会です。聖アンドレアに奉献されています。
前田万葉枢機卿様、島本大司教様などの出身教会・「仲知教会」です。
主任の本田神父様がご親切に迎えて下さいました。
「五島巡礼の旅」第2日
昨晩の宿泊は、「コンカナ王国」。遠くに見えるのが朝食のレストランです。
福江から久賀島に入りました。五島で1番多くの殉教者を生んだ島です。
畳12畳に男女が分けられ200人、8ヶ月間牢屋に入れられていました。足の踏み場もなく、垂れ流しの非衛生極まりない牢屋の中で、毎日芋一本が与えられたそうです。
信仰を生きるため、イエス様を裏切らないため、必死に命をかけた信徒の高貴な生きざまに涙が溢れます。
この信仰の碑には生存者のお名前が書かれています。
ただ、イエス・キリストへの信仰のために、これほどの拷問を耐え、命をかけられた200名の方々。キリスト教迫害時代に高貴に信仰の自由を生きられた証し人に少しでもあやかれるものとなれますように。
久賀島の旧五輪教会は世界遺産です。こんな倒れかかったような教会が世界遺産になる、このようなことは人の目では理解し難いこと。この裏には、長い信仰生活に命をかけ、生きた方々の存在がある。
お花もこんなに喜んでくれてます。
船長の浜ちゃんが「キリシタン洞窟」に案内して下さいました。
突風のために波が高く、洞窟に上がることはできませんでした。
奈留島の世界遺産「江上教会」です。信徒の方々が柱も手書き、窓ガラスも手書き、教会の外部も自分たちで造った教会です。大切に守りたい!
奈留教会のダニエル神父様が、巡礼団を温かく迎えて下さいました。
奈留島の「奈留教会」です。祭壇脇に「都の聖母像」が置かれていました。フランスの教区司祭、ロバン神父様の強い思い日本の教会に一日も早く信仰の自由が訪れますようにとの思いが託された聖母像です。
ごミサは桐教会で捧げられました。昨日、桐教会に赴任なさったシスターMとは、長崎の大波止港でお目にかかり、そして今日の再会です。
1987年に建立された「信仰の先駆者顕彰碑」が大浦天主堂方向を指差しながら建てられました。
ガスパル与作と父・パウロ善七、ミカエル清川沢次郎を顕彰しています。
今日の神父様のお説教:
「先程、キリシタン洞窟を通ってきました。三家族が数ヶ月間生活したところです。天の国の大いなるものとして、私たちは殉教者を讃えます。信仰を守るために様々な逆境に立ち向かう。その大事ものを守り通した人を、たとえこの世で命を奪われても、永遠の命に至るその真理を守った人を、天の国で大いなるものと呼びます。
人間と言うのは本当に不思議なもの、かつ弱いものであり、自分の敵がはっきりしている時、つまり、逆境にあるときは真理を生きるために必死になることができますが、全てが自由になって思い通りに何でもできる社会になると、何が一番大事なことかわからなくなります。そういう一面を持っていますし、今と言う時はそのような時代なのだと思います。もちろん人間が自由に宗教も信仰も価値観も自分の考えに従って選ぶことができる、それ自体は素晴らしいこと、良いことです。けれども、全てが選択可能になってしまうと何か一番大事なものがわからなくなってしまいます。ここには、キリシタン時代・迫害時代と今の決定的な環境の相違があります。
神様の言葉が永遠でありかつ真理であるのは、例えば今日の御言葉を読むとよくわかります。律法や預言者と言う言葉が出てきたら、それは旧約聖書のことと置き換えてもらって良いことなのですが、イエス様は旧約を廃止するためではなく、完成するためにきました。モーゼを通して人に与えられた律法を守るか、守らないかが、私たちの民族のアイデンティティーでは無いですが、私たちにとってこの旧約の教えはいろいろなことに置き換えることができるかもしれません。この世的な常識であったり、大切なこと、守るべきものであったり、一般的な正義や価値観であったりと。私たちはそれぞれが置かれている場所でやるべきことがちがいます。そして、その小さなことを果たしていく、小さなことに重きをおける人でなければ大きなことを完成させる事はできません。人間の弱い一面で慣れと言うものを持ってしまいます。人間には、必要な事としての慣れもあります。新しい職場に、学校に、その生きている場所に慣れなければいけません。しかし、悪い意味での慣れは、適当に自分の都合の良い所だけ、また、人によく見えるところだけをうまく見せようとする。そうゆう弱さを抱えている私たちには、小さなことを大切にする今日の福音は真理であると思います。逆境や迫害の生き方においては、小さなことを守るのは当然の環境になってしまいますが、私たちはそういう点で信じる自由を恵みとして頂いている以上、一応自分の生活の小さなことに重きをおける人にならなければ、その人生も信仰も私たちの魂自体が永遠なるものに向かって動いていかなければならないと言う事では無いかと思います。殉教者たち、信仰を守り抜いた人は、逆境の中で小さなことを守るのは当然の世界に生きていました。私たちが水自ら、小さなことを大切にする決意が必要であると言うこと。この決意のために必要な恵みを聖母を通してこのミサの中で願いたいと思います。」
「えびやさん」の大ご馳走です。次から次へと平らげて、心も身体も満たされた一日。神さま、ありがとうございます。