山下神父様と行く「五島列島巡礼の旅」第4日
今朝は6時の「曽根教会」での共同司式のごミサでした。信者さんが大勢与っていらして、皆様の良い刺激になりました。
山下神父様と行く「五島列島巡礼の旅」第3日
ガイドのOさんがこよなく愛する、所属の教会です。海端にある可愛い教会で、入り口にはルルドがあり、いつもとても綺麗にお掃除が行き届いています。
こんなに青い空と海。80段の階段をふーふー言いながら登りきった所に、手を広げて「来なさい!重荷を負うもの」と待っていて下さるキリスト像が。
宮大工・鉄川与助さんの傑作「大曽教会」です。
聖家族に奉献されている「鯛ノ浦教会」です。由緒ある古い教会は、現在、子供達の「けいこ」(公共要理)に使われています。
世界遺産に登録された「頭が島教会」です。いろいろな規則が出来て訪問しにくい感がありますが、仕方がないのでしょうか?命をかけて信仰を守ったキリスタンの教会に、行政が入り込み過ぎないようにと望みます。
今日のごミサは「青砂が浦教会」で捧げられました。山下神父様が心をかけられた(いつもですが)少し長いお説教ですが、私たちに必要な大切なお話です。ぜひ最後までお読み下さい。「今日の福音は、イエス・キリストが分裂をもたらすとの、多くの読者が疑問を感じる箇所です。律法という当時の絶対的な価値観、十戒の中の父母を敬え、家族を大切にとの箇所を踏まえてここを読まなけらばなりません。イエス・キリストが訴えたことは、決して、家族をないがしろにしていいとか、家族と対立していいということではありません。では、イエス・キリストのこの分裂と死の預言は、何故なのでしょうか?
このためには迫害という背景を知らなければなりません。313年の「ミラノ勅令」まで続いた迫害です。ユダヤ人たちからは、同胞ではあるが、変わった集団であると位置づけられ、ローマ帝国からは、政治的な背景に基づく迫害がありました。そのため命をかけてキリストを信じることは、家族の分裂を招いたわけです。自らキリストを選んだことによって、家族を捨てなければならない人も沢山いました。これは、知っておかなければいけないことです。また、どうしてイエス・キリストがもたらした十字架が人を分裂させるかということも知っておかなければなりません。人の真価が問われるのは、十字架を通してだけです。分かりやすく言うと仕事や、経済的なこと、いろいろなことがうまく回っている時には、人の真価は見えません。しかし、人の真価は、十字架が襲ってきた時、苦しみ、痛み、特に、私たち自身に責任のない所に十字架が降りかかってきた時に、その人の真価が問われます。この考え方がイエス・キリストがもたらした福音です。これは、全ての人の救いの教えですが、この救いは神が十字架の上で命を捧げるということで完成しました。そうすると、十字架を通らずして復活や、希望、救いの道はありません。この十字架の死は、全ての人の救いのためになされました。けれども、十字架をどのように受け入れるかによって、人の道は決定的に違ってきます。これは、私たちが良くわかることです。ある人は十字架と向き合って闘うことができますが、ある人は逃げてしまいます。また、ある時は、私たちも十字架と向き合って闘うことができますが、別の時は逃げてしまいます。このように十字架を通して人の道は、右と左、前と後ろに方向性が分かれてしまいます。これが、イエスの論点としている分裂の意味です。私たちの心に真理への憧れや、救いへの炎が燃えていたらということです。これに火がつくと、たしかに私たちは、今の自分の中にある足りないもの、良くないものを切り離していかなけらばならないので、私たちの心の中に対立というか、強い衝動を伴う動きが出てきます。イエス・キリストはこれを家族との分裂という風に表現しています。私たちの中には良いものも、悪いものもあります。イエス・キリストのなさった救いの業が十字架を通して完成されたので、自分の中の対立と闘い、真理を見出した時には、大切なものをも切り離さなければなりません。そのため、大切な家族をも捨てなければならないのです。心の中の火が燃え上がっていたらというキリストの願いは、私たちの真理への憧れです。これに全身全霊をかけるなら、それ以外のものを横に置いて、神に向かっていくことができます。そのように生きることができますよう巡礼の旅を続けていきたいものです。」(文責:小池俊子)
山下神父様と行く「五島列島巡礼の旅」第2日
昨晩はコンカナ王国て一泊しました。皆さま、お疲れも取れて、元気いっぱいです。
これから、木口汽船で久賀島に向かいます。
久賀島は、潜伏キリシタンの子孫でいらっしゃる木口さんが説明して下さいます。
五島巡礼の1番大切な所は、ここ「牢屋の窄」です。
畳12畳に200名の方々が8ヶ月の間押し込まれ、39名が牢屋の中で、3名が牢を出されてからまもなく殉教なさいました。
何の罪も犯していない方々が、ただ、キリストを信じているという理由で拷問を受け、命を捧げた、この歴史上での事実は、日本の政府の貧しさであり、残酷さでした。その闇が深ければ深いほど、命をかけて信仰を守った殉教者の心の気高さが光ってきます。
以前は4000人もの人口があった久賀島には、現在300人の人が住んでいます。
そしてわずかな人数の信徒によって、この立派な浜脇教会も、「五輪教会」も維持されています。
竹や木を曲げて作られた「旧五輪教会」は世界遺産になりました。日本人の魂と謙虚さ、真理への堅固な執着が、このような宗教的奇跡を生み出しました。
キリシタン洞窟です。こんな岩山に隠れてまで信仰を守った信徒達。私たちの生き方を根本的に変えなければ。
橋の向こうに見えるのは、今日のごミサの「桐教会」です。
「昨日の福音に続く今日の福音は、目覚めて用意していなさい。忠実な召使いの話です。昨日の福音では、終わりの時が来ても、今やっていることを続ける。今、この時やっておくべきことを、そのまま継続できる生き方について話しました。今日の福音はもっと深いものです。目覚めて用意している人の心の姿勢についてです。
主人がいつ帰ってきても良いように準備している僕のことです。怖い主人が帰ってきて、罰せられるというような恐れや不安は良い生き方には導きません。
愛している人を待つ姿勢です。いつ帰っても良いように準備されています。自分の命の終わりの時に、愛しているからこそ、天の国に導いて下さるとの確信を、持っている人です。
死は一度のみです。教会の教えと信仰に基づいて、限りある命を生きているか。神との命を共有する中で生き、神の世界に迎え入れてくれる、その時まで。教会の教えはそのような世界に導いて下さいます。
もう一つ大切なのは、清い心です。神がすべてのものを完成して下さいます。全てを捨てて下さった神。その方への愛の故に待ち望みます。来て下さる主人の思いを知ること。神を知るためには、自分が浄められなければなりません。私たちが心の中に汚れを持っているなら、疑いや悪意を持つようになります。清い心を持っているなら、足りないもののある人を理解することができます。いずれのレベルでも、心の清さや愛をもって準備することにかかっています。
今月はロザリオの月です。アベマリアの一つ一つを唱えながら、聖母が私たちの心を清めて下さいますよう祈りましょう。」(文責:小池俊子)
五島・桐教会ご出身のOさん、お世話になられたシスターとのひと時を楽しまれます。
今日の宿泊は民宿「えび屋」さんです。伊勢エビのお刺身、鯛めし、お刺身、サザエ、etc. 美味しい!沢山!食べ切れません。
山下神父様と行く「五島列島巡礼の旅」第1日
朝は土砂降りで、「カッパと傘の用意をして下さい」とのガイドさんのメールがジェット・フォイルに届いていたのですが。
福江港に到着してから、終日、傘はいりませんでした。神様に感謝!
10月は、ロザリオの月。「水の浦教会」でロザリオを一連唱えました。
巡礼最初のごミサは「井持浦教会」で捧げられました。
「今日の第1朗読と福音から一つづつテーマを黙想致しましょう。第1朗読はパウロのエフェゾの教会への手紙です。キリストは二つのものを一つにして、敵意の壁を取り壊し、平和をもたらしたという言葉に注目したいです。
イエス・キリストが派遣された時に受けたのは、平和があるようにとのメッセージ。平和の使者になること。
二つの違うもの。分裂したものを一つにできる人は、真理を持っているひとです。職場でも、家庭でも、分裂のある所に一致をもたらすことができる人は、信仰のある人、徳のある人、平和な人であることは、宗教を超えた社会でも言えることです。そういう実践が出来ているか考えなければなりません。私たちは時として、自分の言葉や行いがうまくいかないと思うこと、また、人とうまくいかないことがあります。家庭でも職場でも、主人がいつ帰ってもきちんとしている僕。いつ帰っても良いように準備していなさい。
15才で亡くなったドミニコ・サビオは、要理の時間の「もし、今、死ぬとしたら、どうするかとの問いに、「今していることをやり続けます。」今、終わりが来ても、命の終わりが告げられた時、いつ神から呼ばれても良い生き方。そのような生き方をするように神から呼ばれています。聖母の御取り次ぎを願いましょう。」
井持浦 の教会には日本最古のルルドがあります。
そこで、ロザリオを祈り、お水を頂いて聖母の御取り次ぎを願いました。
「大瀬崎断崖展望所」からの夕日です。雨で始まった巡礼でしたが、夕方にはこのように美しい日の入りです。神さまに感謝!
今日一日の巡礼について神父様は、ヨハネの黙示録2:1-5を読み。次のような黙想のポイントを与えて下さいました。
「あなたは、はじめの頃の愛から離れてしまった。だから、とこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、はじめの頃の行いに立ち戻りなさい。
ここで読まれたのは回心への招きです。神はすべての行いをご存知です。努力や功績を見ていて下さいますが、しかし、私たちには、変えなければならないことや、良くない行いがあります。はじめの行いから離れてしまっています。
巡礼は、日常から離れて、神のことを考える時間と場所です。はじめの頃の状態、初心に帰る時です。人生の節目での決断をした時の思いは、一生を大きく左右します。最初の決断に忠実な人は、さらに良い方向に進みますが、全く違うことをしてしまうと、悪い方向に行ってしまいます。神はあなたの労苦、忍耐を知って、回心を促されています。私たちの日常は、全てにおいて、初心貫徹ではありません。そうなっていないことの方が多いです。旅の数日間に、最初の決断と私たちの日常がどうなっているか、神の恵みと聖母の取り次ぎのうちに反省してみましょう。
日常生活を振り返り、黙想して、祈りを捧げましょう。」